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天正18(1590)年に徳川家康が入城した頃はほとんどが葦(アシ)の生える潮浜だった日本橋界隈は、慶長8(1603)年の江戸幕府開府とともに町割がスタート。埋め立て用の土は神田山の土を掘り崩して使用したという。翌年には五街道の起点に制定。金貨を鋳造する金座(その跡地が日本銀行)も設置され、以降江戸期を通じて商業、金融、文化の中心地として発展した。
歌川広重の「東海道五拾三次」(保永堂版)は、東海道の振り出しである「日本橋・朝之景」からはじまる。
日本橋がはじめて架(か)けられたのは慶長8(1603)年。その年に征夷大将軍となった徳川家康が江戸城の東側の海岸地帯を埋め立てて町割りを行った際のことで、翌年にはここが五街道の起点に定められる。「御府内備考」には「この橋江戸の中央にして、諸国への行程もここより定められるゆえ日本橋の名ありという」と橋名の由来が記されている。
昔の人の旅立ちは早かった。「お江戸日本橋七つ立ち」と唄われるように、「七つ」すなわち午前4時頃には出立したらしい。この広重の絵は、まさしくその時刻の風景を描いた。朝焼けのなか、先箱持ちふたりを先頭に橋を渡ってくるのは参勤交代で国許に帰る大名の行列。手前の天秤棒を担いだ棒手振りらの一群は魚屋たちだ。橋の北側には当時魚河岸があり、そこで仕入れた魚の商いに出かけるのだろう。また、橋の背後に火の見、手前左側に法度や掟書が掲げられる高札場、右側には野良犬というように、一枚のなかに江戸名物が巧みに配されているのも、この絵の特長といえる。
ちなみに最初の日本橋は万治元(1658)年に火災で焼失。翌年新架され、このとき絵に見られるような擬宝珠(ぎぼし)が施されたという。以降、江戸期を通じてこの形式が守られたが、当時の橋は木橋だったため、幾度となく火災に遭(あ)い、現在の橋になるまでに19回も架け替えや修復が行われたと記録にはある。広重の絵は天保5(1834)年の出版とされるから、ここに描かれた橋は文化3(1806)年に新築されたものか。
それはともかく、将軍のお膝元であり、交通の要衝であった日本橋には、自然と、人、モノ、金、情報が集まってくる。江戸時代の日本橋界隈は、文字通り日本の商業、金融、文化の中心だった。「日に三箱鼻の上下臍(へそ)の下」との川柳が残っているように、江戸時代初期の日本橋界隈には一日に千両箱「三箱」の金が落ちたといわれる。つまり現在の人形町付近にあった中村座や市村座といった芝居小屋と前述の魚河岸にそれぞれ千両(鼻の上下)、そして明暦の大火(1657年)により浅草に移転するまでやはり人形町付近にあった廓(くるわ、元吉原)に千両(臍の下)、合わせて三千両の金が落ちたというわけだ。
また、2003年に日本初公開された「熈代勝覧」(きだいしょうらん)という作者不明の絵巻物には、19世紀初頭の日本橋通りの街並みが詳細に描かれており、その繁昌ぶりがうかがえる。

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