

中世から交通の要所で漁師町でもあった品川は、慶長6(1601)年、徳川家康によって宿駅に指定され、目黒川をはさんだ南北の品川宿と、享保期に加えられた歩行(かち)新宿の三宿で宿場としての役割を担った。宿並は道幅5間(約9メートル)、南北に19町40間(約2145メートル)で、高輪町境から大井村まで続いていた。同時に、風光明媚な場所であることから江戸庶民の観光地、遊興地としての役割も担うようになり、「北国」と呼ばれた吉原に対して「南」と称され、大変な賑(にぎ)わいを見せたという。
●宿内人別 6890人(男3272人、女3618人)
●宿内惣家数 1561軒(本陣1、脇本陣2、旅籠93)
[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]
歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)の2枚目「品川 日の出」。何らかの予備知識がなければ、これが品川の風景だとわかる者はまずいないだろう。
この絵は、日本橋を七つ(朝4時)に発った大名行列が、日が昇るころに品川宿に入ったところを描いた絵だが、この八ツ山口から望む宿場の街並みと、白帆が浮かぶ碧(あお)い海、朝焼けのなかを白い雲が流れる空をそれぞれ等分に配した構図からは、どこかのリゾートを思わせる、のんびりした雰囲気が漂ってくる。
そう、東海道最初の宿場にして江戸四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)で唯一海に面していた品川宿は、まさしく風光明媚な海辺のリゾートでもあった。なにしろうまい魚がとれて、空気がいい。西に富士山、南東には房総の山々を望め、春は御殿山の桜が、秋は海晏寺(かいあんじ)の紅葉が楽しめる。しかも東海道の起点である日本橋から2里(約8キロ)というロケーション。当時の品川界隈には、江戸近郊庶民のリゾートとしての条件がそろっていたわけだ。
中世の昔から物流の重要港だった品川は、小田原北条氏の時代にはすでに宿場の形態を備えていたとされるが、急激に発展を見せはじめたのはやはり、慶長6(1601)年に徳川家康がここを正式な宿駅(しゅくえき)に指定してからのこと。当初は目黒川をはさんで南北ふたつの品川宿に分かれていたが、享保7(1722)年に現在の北品川1丁目付近に歩行新宿ができ、この三宿で宿場としての役割を担うようになった。
当時は江戸から旅立ちする場合は親類や知人がこの品川まで見送りに、京都方面からやってくる場合は出迎えに出るのが常。そうして茶屋で酒食をともにして別れを惜しみ、再会を喜んだ。「北国」と呼ばれた吉原に対して「南」と称された品川宿は、それゆえ遊興地としても大変な賑わいを見せたのである。
数あった旅籠(はたご)のなかでも、とりわけ有名なのが、高杉晋作や伊藤博文もよく利用した「相模屋」だ。外壁が土蔵のように見えたことから「土蔵相模」とも呼ばれたこの旅籠は、御殿山に落成間近だったイギリス公使館を高杉らが焼き討ちする際の集合場所になったことで知られるが、古典落語「居残り佐平次」をもとにした川島雄三監督の名作「幕末太陽傳」では、フランキー堺演じる肺病病みの佐平次が療養を兼ねて妓楼(ぎろう)ジャックを敢行する。映画には石原裕次郎扮する高杉が、佐平次に焼き討ちの計画を打ち明けるシーンもあった。
ちなみに品川を舞台にした落語にはほかに、妓楼の元板頭(ナンバーワン)のお染が紋日(ものび)に必要な金の工面がつかず、常連の貸本屋の金蔵を誘って品川の海に身を投げようとする「品川心中」があり、「幕末太陽傳」にはこの噺(はなし)も巧みに織り込まれている。また、ジョージ秋山の漫画「浮浪雲(はぐれぐも)」の主人公は、南品川宿の問屋場の頭(かしら)という設定。幕末のこのあたりの庶民の生活を知りたいなら、一読をお勧めしたい。

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