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ニッポン彩発見 広重 五十三次をゆく

歴史の移ろいに想いを馳せる東海道の旅 第三部 藤沢 神奈川県藤沢市 −いにしえの街道行き交う信仰と行楽の拠点−

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歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)より「藤澤 遊行寺」(「東海道広重美術館」蔵)
歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)より「藤澤 遊行寺」(「東海道広重美術館」蔵)
地図
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現在の遊行寺橋付近。奥に見える木々に囲まれた一帯が、遊行寺の参道「いろは坂」の入り口。広重の絵に描かれた江ノ島道への分岐点に立つ一の鳥居は明治期に廃され、現在は鳥居を支えていた袴石(はかまいし)=礎石=だけが遊行寺の宝物殿入口に残されている。

宿場データ

藤沢

日本橋から12里、東海道6番目の宿。宿駅としての役割のほかに、江ノ島、鎌倉、大山などへの参拝の拠点としてもにぎわい、八王子、厚木へ通じる道がここで交差する。遊行寺の門前町としての歴史も持ち、江戸時代でも人口4千人を数える大都市であった。

●宿内人別 4089人(男2045人、女2042人)

●宿内惣家数 919軒(本陣1、脇本陣1、旅籠49)

[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]

江戸期の藤沢を活写した広重の絵

戸塚宿を過ぎた旧東海道は国道1号線からはずれ、そのまま松並木の残る道場坂を下っていくと、右手に樹齢660年といわれる大イチョウがそびえ立つ遊行寺(ゆうぎょうじ)が見えてくる。さらに坂を下りてかつては大鋸橋(だいぎりばし)と呼ばれていた遊行寺橋を渡れば、そこが藤沢宿の入口だ。

この藤沢宿は、3つの顔を持っていた。ひとつはもちろん、東海道の中継地としての顔。もうひとつは、信仰および行楽の拠点としての顔。そして最後が伝説伝承の地としての顔である。というより、この3つがからみあいながら発展していったのがこの町の成り立ちといえるだろう。

江戸期は、大鋸、大久保、坂戸の3集落で構成されていた。戦国武将の系譜を引く蒔田(まいた)家代々の当主が門をかまえた本陣は、大久保と坂戸の境界にあり、問屋場(といやば)は大久保と坂戸、それぞれに1カ所あった。最盛期には約50軒の旅籠が軒を連ね、人口は4千人を数えたという。

この宿場を目指すのは東海道の旅客だけではなかった。信仰のためにここを訪れる人も少なくなかったという。その象徴が遊行寺である。正式には藤沢山無量光院(とうたくさんむりょうこういん)清浄光寺(しょうじょうこうじ)というこの寺は、踊り念仏で知られる一遍(いっぺん)上人を開祖とする時宗の総本山で、4代目の呑海(どんかい)上人が正中2(1325)年に建立した。本来は、檀家や墓地を持たない宗旨であるため、江戸中期ごろまではいわゆる本山機能を持たなかったが、藤沢を語るうえで欠くことのできない寺院であろう。

また、遊行寺橋から藤沢宿とは反対に左に向かうと、江ノ島弁才天へといたる江ノ島道となる。この弁才天は元禄期に杉山検校(けんぎょう)がその霊験によって鍼術(しんじゅつ)の妙技を授かったことから座頭が多く参拝したほか、音楽や福の神として一般の信仰も篤(あつ)かった。江ノ島から鎌倉、さらに金沢八景へと向かうルートは、江戸から2泊3日程度の信心と行楽を兼ねた手軽な旅行にうってつけだったという。

一方、旧東海道に沿って藤沢宿を抜け、さらに引地川を越えて再び国道1号と合流する四ツ谷までくると、そこは落語「大山詣り」でも知られる大山道との分岐点。こちらの大山(標高1253メートル、大山阿夫利=おおやまあぶり=神社で知られる)は商売繁盛の神様として、やはり多くの信者を集めていた。つまり藤沢宿は、東海道の通過点であると同時に、江ノ島や鎌倉、大山に向かう街道が行き交う交通の要所でもあった。

歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)の「藤澤 遊行寺」には、そんな藤沢宿の特徴がさりげなく織り込まれている。「遊行寺」のサブタイトル通り、大鋸橋の背後に遊行寺が時宗総本山の威容を見せつけるかのように高々と配され、手前には江ノ島弁才天の一の鳥居をくぐろうとしている座頭の一行。大きな木太刀をかついで橋を渡っている男は、これから大山へ奉納に向かうところだと思われる。まさに江戸期における藤沢のイメージを凝縮した構図といえるだろう。

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遊行寺橋から現在の国道1号線に架かる藤沢橋、江ノ島道方面を望む。現在は渋滞の要所として知られる藤沢橋だが、これは関東大震災後にかけられた橋で、明治期までは遊行寺門前を右手に折れ、遊行寺橋を渡るのがメインルートだった。
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藤沢宿にはたくさんの飯盛女がいた。宿内の中之町を折れた街道裏手の永勝寺には、飯盛女約40人の墓がある。旅籠の主人・小松屋源蔵が供養のために宝暦11(1761)年から享和元(1801)年の間に立てた。奉公人として半ば家族のような存在だった彼女たちの姿がうかがえる。
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旧東海道が国道1号線と再び合流する四ツ谷には、大山不動尊の大山道標と大鳥居が立つ。落語「大山詣り」でもうかがえるごとく、江戸庶民の間では大山参拝が盛んで、町内で講をつくって毎年参拝した。この四ツ谷辻には多くの茶屋が並んでいたという。
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