

江戸より10番目の宿場。元和4(1618)年、小田原と三島から50軒ずつを移住させ、箱根山中の芦ノ湖畔に開設(このため箱根町にはいまでも小田原町と三島町という小字名が残っている)。東海道でもっとも標高の高い宿場だった。小田原町は小田原藩の管轄、三島町は幕府代官の管轄だったため、ふたつの領主を持つ「相給(あいきゅう)」の宿場として誕生した歴史を持つ。北のはずれには関所が置かれ、江戸防衛および幕藩体制維持のための責務を担った。ちなみに本陣6軒は東海道の宿場のなかで最多である。
●宿内人別 844人(男438人、女406人)
●宿内惣家数 197軒(本陣6、脇本陣1、旅籠36)
[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]
東海道10番目の宿場である箱根宿が設置されたのは、徳川家康の宿駅制制定から遅れること17年の元和4(1618)年。「箱根山中に宿場がなくては、江戸への参勤に難儀する」と西国大名が要請したことから、隣の小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒ずつ移住させ、開設したのだという説もある。
この逸話が象徴するように、箱根は東海道最大の難所だった。♪箱根八里は馬でも越すが……と馬子唄(まごうた)にうたわれている八里とは、小田原から三島までの約32キロを指すが、その真ん中に箱根の山々が聳(そび)え立っていた。街道は石畳などが敷設されていたものの、とくに箱根峠を境に箱根側の「東坂」は平均斜度20%の急な坂道が続き、通行は困難を極めたらしい。馬に乗った女があまりの急坂に馬から転がり落ちたことから「女転ばし坂」と呼ばれた坂もあったという。大名はじめ高位な人間が休息・宿泊する本陣が、東海道の宿駅中最多の6軒あったことも、いかにここが難所であったかを物語っているといえるだろう。
そんなイメージをさらに増幅するのが、歌川広重が保永堂版「東海道五拾三次」で描くところの「箱根 湖水図」である。ゴツゴツとした岩が組み合わされ、鮮やかな色彩で描かれた山々は、まさしく「天下の嶮(けん)」と表現するしかないほど屹立(きつりつ)し、その下の権現坂と思われる細い坂を大名行列の一行が下っている。ここを下りきり、芦ノ湖の水面とその向こうにそびえる富士山が姿を現したときの開放感と爽快感はいかばかりだったのか。
ただし、箱根にはもうひとつ旅人を苦しめたものがあった。関所である。元和5(1619)年に設置されたとされる箱根の関所は、宿場の北はずれにあった。ここは山と湖にはさまれた狭小地で、取締りが容易だったことがその理由だと思われる。十返舎一九「東海道中膝栗毛」には、無事関所を通過した弥次・喜多が宿で喜びの酒をくみ交わす場面があるが、それほどまでに箱根関所は、当時の旅人にとって恐怖感すら覚えるほどの施設として意識されていた。中でも江戸から上る(出る)女性は「出女」と呼ばれ、特に厳しい取り調べが行われていた。

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