

江戸から20番目の宿場で、そもそもは文治5(1189)年に駿府在住の武士が奥州藤原氏征伐の恩賞として源頼朝から丸子一帯の地を与えられ、駅家を設置したのが始まりだという。安倍川を控えて、西側から駿府へ入る要衝として丸子城が築かれ、宿は伝馬の機能も果たしていた。広重の絵に見られるように、昔から名産の自然薯を原料にしたとろろ汁を出す茶屋が並び、旅人はここで精をつけてから宇津ノ谷峠越えに向かったのだろう。
●宿内人別 795人(男366人、女429人)
●宿内惣家数 211軒(本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒)
[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]
梅若菜 丸子の宿の とろろ汁
元禄4(1691)年、当時大津に居を構えていた俳人・松尾芭蕉が、江戸遊行に赴く弟子の乙州(おとくに)に贈った句である。
それから80年ほど時代が下った明和2(1769)年、駿府に生まれた十返舎一九は「東海道中膝栗毛」に次のような話を盛り込んだ。
にわか雨にたたられ、なんとか丸子の茶屋にたどり着いた弥次さんと喜多さん。芭蕉の句を思い出し、とろろ汁を食そうとするが、店主と女房が取っ組み合いのけんかをはじめてしまい、とろろ汁を味わうどころか、止めに入った近所のおかみさんまで巻き込んで、とろろまみれの大騒ぎになってしまう……。
江戸から46里の宿場だった丸子宿は、「宿内町並東西7町、惣家数211軒、このうち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口795人」(天保4年の東海道宿村大概帳)と記録に残っているように、江戸後期になっても比較的小さな宿場だった。ただ、芭蕉と一九がとろろ汁を取り上げたおかげで、その名は広く知られていた。
歌川広重も「東海道五拾三次」(保永堂版)のなかで「鞠子 名物茶店」と題して、この名物を描いている。というより広重は、芭蕉の句と「膝栗毛」の場面を念頭においていたに違いない。一面緑に覆われた野原に立つ茶屋の庭先には梅が咲き、かやぶき屋根にはつがいの鳥。「名ぶつ とろろ汁」の看板横の縁台に弥次・喜多を思わせるふたり連れが腰かけ、赤ん坊をおぶった女が給仕するとろろ汁をすすっている構図から、それは明らかだろう。
宿場の間の距離が長いために設けられた旅人が休憩するための町場である手越(てごし)宿を過ぎ、手越原交差点で国道1号と合流した旧東海道は、佐渡交差点で左にそれる。道が丸子川と並行するようになれば、そのあたりがかつての丸子宿。往時をしのばせる史跡などはとりたてて残っていないが、丸子橋の手前まで進んでくると、広重が描いた茶店そのままのかやぶき屋根が見えてくる。これが名物茶屋のモデルといわれる丁子屋だ。創業は慶長元(1596)年、もちろん売り物はとろろ汁で、店前には前述の芭蕉の句碑と一九の碑が建っている。
旧東海道は左の丸子橋を渡るのだが、そのまま直進し、国道に出たらすぐに右折。静清バイパスをくぐって「駿府匠宿(たくみしゅく)」へ。ここは静岡の伝統産業や工芸品を紹介する、いわば体験型のミュージアム。当時の旅の様子などがわかる「東海道歴史体験ホール」も併設されている。
さらに北へ向かうと、右手に「吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)」。今川氏に仕えた連歌師・飯尾宗長(いいおそうちょう)が草庵を結んだ場所で、天柱山や丸子冨士を借景にした庭園は、国の名勝・史跡にも指定されている。

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