

江戸から52里(約203キロ)、23番目の宿場として慶長6(1601)年に制定。同9(1604)年に大井川の大氾濫(はんらん)で宿場が流され、北へ移ったが、元和元(1615)年、もとの場所に再建、護岸工事も進められた。元禄9(1696)年には川越制度が発足し、その役を対岸の金谷宿とともに担った。宿場は川越しを待つ人々で大変な賑(にぎ)わいを見せたというが、明治3(1870)年に大井川の川越制度は廃止されて渡舟が置かれ、同15年には木橋、さらに同22年には鉄道鉄橋が架かった。
宿内人別 6727人(男3400人、女3327人)
宿内惣家数 1461軒(本陣3、旅籠48)
[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]
箱根八里は馬でも越すが、「越すに越され」なかったのが大井川である。
慶長6(1601)年、東海道に伝馬制を敷いた徳川家康は、主に軍事上の理由から街道をさえぎる河川の架橋(かきょう)や渡船を許さなかった。それゆえ、川の幅12町(約1.3キロ)、駿河国と遠江国の境を流れる東海道随一の大河だった大井川は、当時の旅人にとって最大の難所であった。
橋も舟もないので、川のなかを歩いて渡るしかない。ところが、大井川は川幅もさることながら流れも急で、不慣れな旅人が自力で川越しするには無理があった。そこで、手助けをする人足が登場するが、江戸時代初期はその方法や運賃が決まっておらず、旅人とのトラブルも少なくなかった。このため、渡渉の順番や料金を管理する川越制度が元禄9(1696)年に制定される。その役を対岸の金谷宿とともに担ったのが、この島田宿だった。
川越しに関する一切の事務は、川会所が取り仕切った。大井川を渡ろうとする旅人は、川札と呼ばれる、人足を雇うための札を川会所で買い、これを人足に渡してはじめて川を渡ることができた。川札の値段はそのときの川幅と水深によって決まり、寛政年間には股通(またどおし)、すなわち水深が股下までの場合で川札1枚が48文(約1440円)。以降、帯下通、帯上通、乳通と続き、最高の脇通(4尺5寸、約136センチ)が94文、約2820円(当時の大井川の常水は2尺5寸≒76センチ)だったという。川越しの方法には肩車(川札1枚)から、担ぎ手だけでも24人を要する大高欄連台(川札56枚)まであった。
島田宿が抱えていた人足は当初350人。それが幕末には約650人にまで増えていたそうだが、いくら人足がいても自然には逆らえない。雨で水深が脇通を越えると、大井川は川留めになり、その間旅人は水量が減るまでひたすら待ち続けるしかなかった。最長で28日川留めが続いたという記録が残っており(慶応4年)、松尾芭蕉も「さみだれの 空吹き落とせ 大井川」と、川明けを願う気持ちを詠んでいる(このとき芭蕉は四日間留められたそうだ)。
このように大井川の川越しは、旅人にとって大きな負担であったが、宿場にとっては大きな収入源。まして川留めが続けば、島田宿は川を渡れなくなった旅人たちで「江戸のような」大変な賑わいを見せたという。島田宿の発展は、まさしく川留めとともにあった。

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