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ニッポン彩発見 広重 五十三次をゆく

歴史の移ろいに想いを馳せる東海道の旅 第七部 島田 静岡県島田市 −お殿様でも越すに越されぬ川越しの宿−

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歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)より「嶋田 大井川駿岸(すんがん)」(「東海道広重美術館」蔵)
歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)より「嶋田 大井川駿岸(すんがん)」(「東海道広重美術館」蔵)
地図
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島田側から見た現在の大井川。この日は水量がかなり少なかった。広重の絵のように高い位置から大井川を俯瞰(ふかん)するのは現実には不可能で、この絵は広重の想像によるのだろう。奥に見えるのが大井川橋。現代の旅人は通常これを渡って川を越えているわけだ。なお、現在の大井川の川岸は緑地公園やマラソンコースとなっている。

宿場データ

島田

江戸から52里(約203キロ)、23番目の宿場として慶長6(1601)年に制定。同9(1604)年に大井川の大氾濫(はんらん)で宿場が流され、北へ移ったが、元和元(1615)年、もとの場所に再建、護岸工事も進められた。元禄9(1696)年には川越制度が発足し、その役を対岸の金谷宿とともに担った。宿場は川越しを待つ人々で大変な賑(にぎ)わいを見せたというが、明治3(1870)年に大井川の川越制度は廃止されて渡舟が置かれ、同15年には木橋、さらに同22年には鉄道鉄橋が架かった。

宿内人別 6727人(男3400人、女3327人)

宿内惣家数 1461軒(本陣3、旅籠48)

[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]

細かな料金体系まで定められていた川越制度

箱根八里は馬でも越すが、「越すに越され」なかったのが大井川である。

慶長6(1601)年、東海道に伝馬制を敷いた徳川家康は、主に軍事上の理由から街道をさえぎる河川の架橋(かきょう)や渡船を許さなかった。それゆえ、川の幅12町(約1.3キロ)、駿河国と遠江国の境を流れる東海道随一の大河だった大井川は、当時の旅人にとって最大の難所であった。

橋も舟もないので、川のなかを歩いて渡るしかない。ところが、大井川は川幅もさることながら流れも急で、不慣れな旅人が自力で川越しするには無理があった。そこで、手助けをする人足が登場するが、江戸時代初期はその方法や運賃が決まっておらず、旅人とのトラブルも少なくなかった。このため、渡渉の順番や料金を管理する川越制度が元禄9(1696)年に制定される。その役を対岸の金谷宿とともに担ったのが、この島田宿だった。

川越しに関する一切の事務は、川会所が取り仕切った。大井川を渡ろうとする旅人は、川札と呼ばれる、人足を雇うための札を川会所で買い、これを人足に渡してはじめて川を渡ることができた。川札の値段はそのときの川幅と水深によって決まり、寛政年間には股通(またどおし)、すなわち水深が股下までの場合で川札1枚が48文(約1440円)。以降、帯下通、帯上通、乳通と続き、最高の脇通(4尺5寸、約136センチ)が94文、約2820円(当時の大井川の常水は2尺5寸≒76センチ)だったという。川越しの方法には肩車(川札1枚)から、担ぎ手だけでも24人を要する大高欄連台(川札56枚)まであった。

島田宿が抱えていた人足は当初350人。それが幕末には約650人にまで増えていたそうだが、いくら人足がいても自然には逆らえない。雨で水深が脇通を越えると、大井川は川留めになり、その間旅人は水量が減るまでひたすら待ち続けるしかなかった。最長で28日川留めが続いたという記録が残っており(慶応4年)、松尾芭蕉も「さみだれの 空吹き落とせ 大井川」と、川明けを願う気持ちを詠んでいる(このとき芭蕉は四日間留められたそうだ)。

このように大井川の川越しは、旅人にとって大きな負担であったが、宿場にとっては大きな収入源。まして川留めが続けば、島田宿は川を渡れなくなった旅人たちで「江戸のような」大変な賑わいを見せたという。島田宿の発展は、まさしく川留めとともにあった。

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1966年に国の史跡指定を受けた「島田宿大井川川越遺跡」。元禄9年の川越制度制定に伴って置かれた川会所をはじめ、人足の集合場所であった番宿、川札を換金した札場、年配の人足が集った仲間宿、寄り合いを開いた立会宿といった当時の建物が立ち並ぶ。建物の多くは中を見学できるが、数軒はいまも人が住んでいる。
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料金の設定、通行の順序の割り振りなど、大名から庶民までの川越しに関する事務一切を取り扱った川会所。ほかに旅人の禁制破りや人足の不正行為なども取り締まったという。建物は安政年間(19世紀半ば)の建造で、1970年に現在地に移されて復元された。中には連台などが展示されている。
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大井川の川岸に建つ島田市立博物館。館内は7つのコーナーに分かれ、「旅と旅人」をテーマに、江戸時代後期の大井川、島田宿、川越しの様子をわかりやすく展示・解説してあり、一見の価値がある。2階から眺める大井川の景色もなかなか。川越遺跡の東側には、明治時代に建てられた日本家屋を島田市立博物館分館として、海野光弘の版画や昔懐かしい民俗資料などが展示されている。月曜・祝日の翌日休館。
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