

東海道のほぼ中間、江戸から31番目の宿場。慶長5(1600)年に関所が設置された。翌年には宿場となった。渡舟場や湊の機能を併せ持つ特異な宿場として発展するも、地震や津波の被害を受けたため、2度の移転を余儀なくされ、現在の場所に落ち着いたのは宝永5(1708)年のことだった。
宿内人別 3474人(男1776人、女1698人)
宿内惣家数 797軒(本陣3軒、旅籠26軒)
[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]
東海道のほぼ中間に位置する浜名湖は、湖といいながらも遠州灘とつながっている。これはいまから約500年前に地震と津波などにより、最南端の地峡が決壊したためであるが、それゆえ「今切(いまぎれ)」と名づけられたこの開口部の往来は、船に頼るしかなくなった。この渡舟を「今切の渡し」といい、今切口東側の舞阪と西側の新居に船着場が置かれた。
こうして東海道を分断することになった浜名湖を、以後この地方を支配してきた今川・徳川・池田の各大名は自然の要害として重視し、渡しを管轄下に置く。なかでも徳川家康は慶長5(1600)年、軍事上の理由から「今切の渡し」の新居側渡舟場に関所を設置。翌年の東海道への宿駅設置に伴い、新居は新船役免許状を付与され、渡舟の運営権を与えられるとともに、東海道31番目の宿場として認められたのである。
歌川広重が保永堂版の「東海道五拾三次」で描いたのも、「荒井 渡舟ノ図」と題されているように「今切の渡し」だった。3艘(そう)見える船のうち、もうすぐ岸にたどり着こうとしているのが通常の渡舟。中央の幔幕(まんまく)を張り巡らした船は白熊槍(やり)や吹流しなどから大名行列の一行と推察され、手前の舟にはそれに従う中間たちが乗っている。ちなみに舞阪から新居までの距離は1里半(約6キロ)、時間にして2時間ほどの行程だったそうだ。
広重の絵で、対岸の浜辺に描き込まれているのが関所である。ただし、慶長5年に置かれた最初の関所はもっと南東側にあった。しかし、暴風雨や地震などで2度移転、現在地に移ったのは宝永5(1708)年のこと。したがって広重の描いた関所は、現存する建物の前のものだといっていいだろう。
東海道には新居のほかに箱根に関所が置かれ、とりわけ「入鉄砲と出女」、すなわち江戸に持ち込まれる鉄砲と江戸から出る女を厳しく取り締まったが、新居では出女だけでなくすべての女性を取り調べたという。このため、「人見女」と呼ばれる「女改(おんなあらため)」専門の検閲員もいた(男装して検閲を逃れる者もいたため、疑わしい男性の股間を調べるのも人見女の役割だった)。また、なかには今切の渡しを避けるため、浜松から東海道を外れて浜名湖の北側を抜け、豊川を経由して東海道に戻るルートを行く旅人もおり、女性が多かったことからこの道は「姫街道」と呼ばれたそうだ。

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