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ニッポン彩発見 広重 五十三次をゆく

歴史の移ろいに想いを馳せる東海道の旅 第十一部 関 三重県亀山市関町 −人々の暮らしが残る生きた伝統建築群−

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歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)より「嶋田 大井川駿岸(すんがん)」(「東海道広重美術館」蔵)
歌川広重「東海道五拾三次」(保永堂版)より「関 本陣早立」(「東海道広重美術館」蔵)
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広重は、夜が明けきらぬ早朝に本陣を出立する大名一行の姿を描いている。本陣とはいうまでもなく大名や公家、幕臣などが利用した宿泊施設。この絵の本陣は川北本陣だといわれているが、地元教育委員会の見解では、建物の向きなどから写真の伊藤本陣であるとしている。現在電気店として残っている建物は、家族の住居と大名宿泊時に道具置場として供する建物であったとのこと。

宿場データ

越前の愛発(あらち)、美濃の不破とともに日本三関に数えられる伊勢鈴鹿関が置かれた。その名は壬申の乱で早くも登場する。慶長6(1601)年に江戸から47番目の宿場に制定されると、伊勢別街道、大和街道と東海道との分岐点であることから、大変なにぎわいを見せたという。

宿内人別 1942人(男1008人、女934人)

宿内惣家数 632軒(本陣2、脇本陣2、旅籠42)

[宿内人別・宿内惣家数は天保14(1843)年の東海道宿村大概帳より引用]

律令期より続く東国・伊勢方面への玄関口

時代劇のセットのよう――月並みだが、そんな形容がいちばんピッタリくる。いまにもちょんまげを結った武士や尻端折りした町人が現れそうだ。ただ、セットと違うのは、実際にそこで暮らしている人がいることである。

三重県亀山市関町。鈴鹿山脈のふもとに位置するこの町は、すでに7世紀には都を守るために置かれた日本三関のひとつ「伊勢鈴鹿関」があったように(これが町名の由来でもある)、古くから交通の要衝だった。中世には伊勢平氏の流れを汲む関氏の14代目・盛信が改修に着手。中町をつくり、その後地蔵院を中心に門前町が形成され、現在見られる町並みが整ったという。そして、慶長6(1601)年の徳川家康による東海道伝馬制施行と同時に、江戸から数えて47番目の宿場となったのである。

江戸時代の関宿は、狭い通りを横切るのもままならぬほどのにぎわいを見せたそうだ。西の追分で奈良へ向かう大和街道と、東の追分では伊勢神宮へといたる伊勢別街道と交わっていたからである。

亀山宿方面から国道1号をはずれて旧東海道に入り、しばらく行くと左に大きな鳥居が見えてくる。ここが宿場の入口である東追分で、すなわち伊勢別街道との分岐点。鳥居は伊勢神宮を遥拝するためのもので、京都方面からやってきた人はこれをくぐって参宮に向かった。伊勢参りが爆発的なブームとなった江戸期には、多いときで1日に数万人の人々が訪れたという。

ここから宿内を西へと向かう。道は土を思わせる薄茶色に舗装され、電柱もない。昭和59(1984)年、東追分〜西追分間の約1.8キロメートル、25ヘクタールは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。しっくい細工や瓦細工といった細かい意匠が施された宿内の建物のうち、200軒あまりは江戸時代から明治時代にかけて建てられた。18世紀中ごろの町屋もある。東海道の多くの宿場が大きく変貌(へんぼう)したなかで、関宿がいまだかつての面影を留めているのはそのためである。

そんな関宿の歴史を知りたければ、宿場の中ほどにある「まちなみ資料館」へ。江戸時代末期の町屋を修復した館内には、関宿に関する史資料が多数展示されており、土蔵2階の展示室では町並み保存事業の進展による町の移り変わりを知ることができる。

その斜め向かいに関宿の脇本陣であった「鶴屋」があり、並びには「川北本陣跡」がある。鶴屋は2階壁面の千鳥破風(ちどりはふ)が当時の面影をしのばせるが、川北本陣は石碑が残るのみ。ただ、本陣の門は近くの延命寺に移築され、山門として残されている。

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関宿の入口である東の追分は、東海道と伊勢別街道の分岐点にして県指定史跡。大鳥居は20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくるそうだ。常夜燈や道標も残っている。
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宿場の中心にある関まちなみ資料館は、江戸末期の文政期に建てられた伝統的な町屋。町並み保存活動の進展の様子もわかる。
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江戸時代から続く夏祭りで曳かれる山車を収納した山車倉は、現在4カ所残っている。ちなみに「精一杯」を意味する「関の山」という言葉は、豪華さを競って大型化し、最盛期は16基あった山車が、狭い宿内で身動きがとれなくなったことから生まれたといわれている。
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