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地球発

週刊昭和第12号は2009年2月17日発売。定価580円(税込み)

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平和を目指す人類の理想郷

文:柴田鉄治(科学ジャーナリスト)

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宗谷出港
昭和31年(1956)11月8日、隊員53人と乗組員77人を乗せた南極観測船「宗谷」が、港を埋めた人たちの盛大な見送りを受け、東京・晴海埠頭を出港した

昭和32年(1957)という年を、私は「科学報道元年」と呼んでいる。1月に南極の昭和基地が誕生し、8月に茨城県東海村の日本原子力研究所の第1号原子炉が臨界に達し、10月にソ連の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられ、宇宙時代が幕を開けたのだ。

華やかな科学ニュースが次々と登場して、新聞社や放送局に、科学ニュースを専門に扱う記者集団、科学部や科学取材班が生まれたのもこの年である。

この科学報道元年のトップニュースが南極観測だが、当時、南極観測は科学ニュースという扱いをされなかった。新聞に最初に報じられたときの見出しが「南極学術探検」という言葉だったことが示すように、科学ニュースというより、「探検」「冒険」といったニュアンスの濃いニュースだったのである。

そのせいもあって、「科学報道の産みの親は原子力、育ての親は宇宙開発」という言い方がなされ、当時、国民の関心が最も高かった南極観測のニュースは、科学報道誕生の原動力の中には入っていない。

というより南極観測のニュースは、「敗戦後の日本国民を元気づけた三つのニュースのなかの一つ」という言い方のほうがふさわしい。水泳の古橋廣之進選手の世界記録、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞に続くものだ。

熱狂は頂点に達した

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生きていたタロとジロ
無人の昭和基地に残され、生きのびたタロとジロと1年ぶりに再会、あごをなめられる北村第3次越冬隊員。昭和34年(1959)4月。

当時、私は科学者を目指す大学生だったが、南極観測のニュースに胸を躍らせ、新聞をむさぼるように読んでいた一人である。私の少し後の世代、当時、小中高生だったなかには、僅かなお小遣いのなかから5円、10円と義捐金を出したという人が少なくない。それほど国民の盛り上がりは大きかったのである。

この南極観測が、朝日新聞社の提唱で始まったことはよく知られている。昭和30年3月、「北極と南極」という軽い読み物風の連載記事を書いていた社会部の矢田喜美雄記者が、昭和32〜33年の国際地球観測年(IGY)に各国が協力して南極観測を行う計画が進んでいることをキャッチし、「朝日新聞の事業としてやれないか」と信夫韓一郎専務に話したところ、信夫専務は「それは面白い」と応じた。

矢田記者も型破りの記者だったが、信夫専務も国民感情の洞察力に優れた新聞人だった。すぐ「科学朝日」編集長の半沢朔一郎記者を呼んで、二人でさらに調べるように指示した。二人が、日本学術会議の茅誠司会長、東大の永田武教授を訪ねて話したところ、「われわれはとても無理だろうと諦めていた。朝日新聞が応援してくれるなら実現できるかもしれない」と賛成したという。

半沢記者によると、そのとき茅会長はこんな冗談を言って笑わせたそうだ。「昨年は政治家が札束で学者の頬をひっぱたきに来たが、今年は朝日新聞が氷の棒で学者の頭を叩きに来た」。前年、政治家が突然、2億3500万円の予算をつけて原子力開発をスタートさせ、「政治家が札束で」と報じられたことに対する冗談だった。

地図:第1次南極観測隊「宗谷」の南極航海

海上保安庁の灯台補給船を改装した初代観測船「宗谷」が、第1次観測隊を乗せて東京港を出港したのが昭和31年11月8日。幸運に恵まれた1次隊は、日本に割り当てられたリュツォ・ホルム湾の奥深く入って東オングル島に昭和基地を建設。西堀栄三郎越冬隊長ら11人の越冬隊を残すことにも成功した。

1次隊は帰途に氷に閉じ込められて動けなくなったが、ソ連の「オビ号」に救出されて事なきを得た。ところが、不運の2次隊は往路で氷につかまってしまい、越冬隊さえ残せなかった。しかし、基地に置き去りにされたカラフト犬のうち、タロとジロの2頭が生きていたことが昭和33年、到着の3次隊によって確認された。このニュースに世界中が沸き、国民の熱狂は頂点に達した。

「愛国心」より「愛地球心」

科学者を目指していた私が新聞記者に転進した理由は、子どもの頃の戦争体験から「平和と人権を守るジャーナリズムの仕事を」と考えたわけで、南極観測とは直接の関係はない。しかし全く無関係かといえば、そうでもない。「新聞社というところはこんなことまでできるのか」という思いが、私の背中を強く押してくれたことは確かである。

その私が新聞記者になって、念願の南極観測に同行取材できたことは、幸運というほかない。「宗谷」に続く2代目の観測船「ふじ」の処女航海となった7次隊(昭和40年出発)に同行。9次隊の極点旅行(昭和43年)には、米国隊の航空機で南極点に先回りして取材し、さらに、47次隊(平成17年出発)にはオブザーバーとして3代目の観測船「しらせ」で40年ぶりに再訪した。

こうした南極行で、私はすっかり南極の魅力のとりこになった。大自然の素晴らしさもさることながら、南極条約によってどこの国の領土にも属さず、一切の軍事利用を禁止して、科学観測の自由と国際協力を実現している南極は、いわば人類の理想を先取りした平和の地なのである。

各国が自国の「国益」ばかりを主張していたら、世界平和も地球環境も守れないことは明らかだ。私はいま、「南極の語り部」として、「愛国心」ではなく「愛地球心」でなくてはならないと説き、「世界中を南極にしよう!」「南極を教育に」とあちこちで持論をぶっている。

柴田 鉄治(しばた・てつじ)

昭和10年(1935)生まれ。朝日新聞科学部長、国際基督教大学客員教授などを歴任。著書に『科学事件』『世界中を南極にしよう!』など。

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