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振り返る昭和

vol.40 昭和63-64年 昭和天皇崩御

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週刊昭和第40号は2009年9月1日発売。定価580円(税込み)

こちらから購入できます

昭和64年(1989)1月7日午前6時33分、昭和天皇が死去した。
長く過酷な闘病が終わり、昭和から平成へと、時代は動いた。

昭和が終わった日

岩井克己(朝日新聞編集委員・皇室担当)

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園遊会
春の園遊会で出席者に手を振る昭和天皇。昭和63年(1988)5月19日、東京・赤坂御苑で

昭和63年9月19日午後9時50分頃、昭和天皇は吹上御所の寝室で激しく吐血した。寝具が鮮血で染まった。日本赤十字社から血液輸送車が駆けつけた。

天皇には10日ほど前から黄疸症状が現れ、18日の大相撲観戦や19日の竹下登首相の拝謁もとりやめとなっていた。深夜の容体急変に、高木顕侍医長が自宅から駆けつけるなど皇居は騒然となり、メディアも天皇の病状報道一色となった。

「いよいよ『昭和』が終わる」

皇居前広場は、お見舞い記帳の人波で埋まり、街では祝い事や運動会、お祭りの中止など「自粛」の動きが広がった。折しも国会では消費税導入法案をめぐって与野党が激しく対立しており、天皇の容体は政局の行方にも影響する形勢となった。皇太子は10月8日、国民生活に影響するような過剰な自粛に憂慮の念を表明した。

天皇は十二指腸周辺からの出血を繰り返し、血圧低下など危機的状況を度々迎えた。しかし、その都度、輸血によって乗り越えた。侍医団は、高齢の天皇の体力を考慮して、積極的治療によるリスクと苦痛を避けるため、新たな外科的治療は行わず、輸血と点滴を中心とした対症療法に徹するとの方針をとった。「天寿を全うしていただく」と。

万全の輸血態勢もあって、天皇は侍医団も驚く回復力をみせた。闘病は111日間に及び、吐血以来の輸血総量は3万1000ccを超えた。

皇太子はじめ皇族・親族は頻繁に吹上御所を見舞い、天皇も10月までは笑顔で話し、常陸宮妃が吹き込んだ童話の録音や、側近が窓辺で鏡に映す十三夜の月を楽しんだ。しかし、11月に入ると衰弱が進み、本人や肉親の悲痛な声が病室から聞こえるようになった。12月には意識も遠のき、肉親の呼びかけにもほとんど反応しなくなった。

国会では野党が牛歩戦術で抵抗するなか、12月24日に消費税法案が可決された。

がんの告知せず

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新元号は「平成」
新しい元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官。昭和64年1月7日、首相官邸で

そして年が改まった昭和64年1月7日――。

未明から心臓が急速に弱り、強心剤でも回復せず、瞳孔が開いた。午前5時40分、皇太子一家が皇居に駆けつけた。良子皇后(香淳皇后)が最後の対面をしたあと、皇族が病床を囲み、皇太子妃らが足をさするなか、午前6時33分、死去。戦前は「統治権の総攬者」として、戦後は「国民統合の象徴」として62年余り在位し続けた昭和天皇は、87歳の生涯を閉じた。政府は竹下首相の「謹話」を発表した。

「お心ならずも勃発した先の大戦において、戦場に苦しむ国民の姿を見るに忍びずとの御決意から、御一身を顧みることなく戦争終結の御英断を下されたのでありますが、このことは、戦後全国各地を御巡幸になり、廃墟にあってなす術を知らなかった国民を慰め、祖国復興の勇気を奮い立たせて下さったお姿とともに、今なお国民の心に深く刻み込まれております」

高木侍医長は天皇の病名を「十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)」と発表した。

昭和62年9月、検査で膵臓の腫大と、それに圧迫された十二指腸の通過障害が見つかり、宮内庁病院で腸のバイパス手術が行われたが、その際は「慢性膵炎の疑い」と発表されていた。実は病理検査でがんが見つかっていたが、医師団は切除を断念し、本人にも告知しない方針を固めていた。膵臓がんではないかとみられていたが、1年半近くに及ぶ闘病の経緯からみて、十二指腸原発の可能性も高いと判断された。

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天皇の棺
大喪で、葬場殿に向かう棺を乗せた葱華輦(天皇の乗り物)。平成元年2月24日、東京・新宿御苑で

内平らかに外成る

天皇の死去から約8時間後の7日午後2時半過ぎ、小渕恵三官房長官が会見し、新しい元号は「平成」と発表した。

出典は『史記』五帝本紀の〈内平外成(内平らかに外成る)〉、『書経』大禹謨の〈地平天成(地平らかに天成る)〉。政府は「国の内外にも天地にも平和が達成される」との願いを込めたと説明した。

元号は、戦後に旧皇室典範が廃止されたため、法的根拠のないまま「慣習」として使われていたが、昭和54年、元号法が制定されて「昭和」は政令で定められた。このときからひそかに陽明学者安岡正篤、中国哲学者宇野精一、漢学者諸橋轍次らに「次の元号」候補の選考が依頼されたとされる。

昭和天皇の吐血を受けて、政府は学者、報道機関代表らに委嘱して「元号に関する有識者懇談会」を設置。天皇死去後直ちに召集された懇談会で(1)平成、(2)修文、(3)正化、の三つの案が審議され、最終的には同日午後2時過ぎの閣議で、元号を平成に改める政令が正式に決定、公布され、翌8日から施行された。

戦争と敗戦、戦後の復興に至る昭和の激動の歴史を振り返り、国民の間では、自らの歩みとも重ね合わせて様々に思いが交錯した。昭和63年12月7日、長崎市議会では本島等市長が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、右翼などの激しい反発を呼んだ。その後、本島市長は平成2年(1990)1月に右翼団体員に狙撃され重傷を負った。自粛の波と並んで、戦前からの「天皇タブー」の根強さが改めて浮き彫りになった。

平成元年2月24日、氷雨に煙る東京・新宿御苑で「大喪の礼」が執り行われ、昭和天皇の遺骸は八王子市に建造された武蔵野陵に埋葬された。元首級55人を含む163カ国、28国際機関からの弔問客、国内各界代表ら約9800人が参列した。

岩井 克己(いわい・かつみ)

昭和22年(1947)生まれ。朝日新聞社会部記者などを経て現職。「『紀宮さま 婚約内定』の特報」で新聞協会賞受賞。著書に『天皇家の宿題』など。

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