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母子の墓は息子の出身中近くの山中にあった。細道を登ると、斜面にはりつくように並び立ち、新しい黄色いチューリップが供えられていた。
JR山陰線で京都に戻る途中、母が飛び降りた保津峡の鉄橋を通った。眼下の保津川の白い急流を見ながら、徒弟僧の生きた時代を考える。
どっぷりと「戦前」に囲まれた世代だったのだろう。地縁の根強い村で母子家庭の長男として期待された。当時の金閣寺も禅寺ゆえに修行は厳しく、上下関係やしきたりが重んじられる社会だった。
16歳で終戦を迎えた彼は、欧米の映画を愛し、哲学を学ぶ大学生になっていく。部屋には映画雑誌が数多くあり、友人に米国や東京へのあこがれを語っていたという。
夕刻、再び金閣寺の舎利殿の前に立つ。再建後、以前とは比べものにならないくらいに光る建物となり、87年の大改修でさらに輝きを増した。
わいわいと写真を撮りあう修学旅行生に「印象は? やっぱり美しい?」と聞いた。
「ぴかぴかして、なにか本物じゃないような。アニメの世界みたい」(秋田・高2)
戦後、米国の影響で平等、自由や経済繁栄を尊ぶ意識が一気に強まったが、その恩恵は放火事件当時、ごく一部の層に限られた。理想と現実の乖離(かいり)が彼と金閣を敵対させたのか。戦後復興途上のあの時代、のちに大勢が享受したものを求めて若者たちは苦悩していたのだろう。
(石川雅彦)


◆いつまでも理由問いたい
金閣炎上のときに寺にいた人間で生きている者も少なくなりました。私が徒弟僧になったのはその前年です。病弱で故郷の福井に帰って養生し、父親に連れられて金閣寺に戻ってきたのが出火前日の7月1日。当時14歳でした。
6畳の部屋で寝ていたら、夜中に「ドンドン」という音で目が覚めた。すると、障子に真っ赤な火が映っている。
急いで父を起こしに行きました。父は前夜、放火した徒弟僧と囲碁を3番打って、0時を回ってから床についたのでまだ寝ていました。「金閣が燃えている」と言うと、「寝ぼけているんか」とまったく信じないので、腕を引っ張って起こしました。
あの日は雨。みんな、なすすべもなく「ゴー、ゴー」と音をたてて燃える金閣を見ているばかり。そのうち3層目が地響きを立てて崩れ落ち、闇夜に火の粉が舞い上がりました。大型消防車も来ましたが、大きすぎて山門から入れない。小型ポンプ車が、金閣を囲む鏡湖池(きょうこち)から水を吸い上げて放水してました。
放火した兄弟子の徒弟僧とは半年余り一緒に生活しました。柔道や勉強を教えてくれる普通の大学生でした。「寺がお金もうけに走った」と怒ったとか言われましたが、理由はいまだにわかりません。ただ、当時を知る者として、いつまでも問い続けなければならないことだと思います。
(更新日:2011年07月06日)





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