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2011年4月30日朝日新聞夕刊紙面より
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1937年4月14日朝日新聞夕刊1面

名作が誕生したもう一つの背景として川本さんが注目するのは荷風の個人的事情だ。

荷風は当時57歳になる。長らく目立った作品を発表せず、文壇では「過去の人」と見られていた。自身も老いを強く意識していた。「芸術の制作慾(よく)は肉慾と同じきものの如し」。玉の井という隠れ里に遭遇する直前の36年2月24日の日記「断腸亭日乗」に記している。

そして荷風は玉の井で、小説のヒロイン「お雪」のモデルとなったと思われる女性に出会い、小説への意欲を蘇(よみがえ)らせた。「荷風は玉の井という隠れ里で見事に生き返ったのです」と川本さんは語る。「濹東綺譚」を36年9月から約1カ月で一気に書き上げたのだった。

荷風はお雪をミューズ(女神)と表現した。荷風が、お雪のような境遇にあった女性を心からいとおしんでいたことを示す記録がある。

新聞連載が終了した直後の37年6月22日の日記だ。

「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓(えいいきしょうぎ)の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」

東京・南千住にある浄閑寺は1855年の大地震のとき、近くにあった遊郭「吉原」の遊女たちが投げ込むように葬られたことから、「投げ込み寺」と呼ばれる。寺には遊女たちの名を記した過去帳も残されている。

結局、荷風は浄閑寺ではなく永井家の墓がある東京・雑司が谷霊園に眠った。しかし死後4年目、荷風を慕う文学関係者らの計らいで、浄閑寺に「震災」という詩を刻んだ文学碑と供養塔が築かれた。

供養塔には、荷風の歯2本と、愛用した小筆が納められている。向かい側には吉原の遊女たちを供養した「新吉原供養塔」が寄り添うように建つ。浄閑寺住職の戸松秀明さんは「永井先生の夢は、かなえられたのではないでしょうか」と話す。

4月30日は荷風の命日。この日、浄閑寺では毎年、荷風忌が営まれている。

(山田邦博)

証言

映画「濹東綺譚」を80歳のときに公開した映画監督・新藤兼人さん

◆底辺に生きる人間への愛

小説の新聞連載が始まった当時、僕は25歳でした。毎日、夕刊が待ち遠しかったんですよ。木村荘八の挿絵もすばらしかった。軍国主義が強まる当時の重苦しい空気の中で、社会の底辺に咲いた娼婦(しょうふ)「お雪」に、大衆は救われたのです。

「濹東綺譚」を好色文学とか花柳小説といったとらえ方をするのは、表面的です。永井荷風は「お雪」を娼婦だからといって卑下したり軽蔑したりせずに、一人の人間として、荷風の分身である主人公「大江匡(ただす)」と対等に描いています。

この小説が長らく読まれ、少しも古く感じられないのは、登場人物の思いやりとか、やさしさが小説の底に流れているからなのだと思います。社会のいちばん底辺に生きる人間への荷風の愛情が、小説の全編から読み取れるのです。

僕が「濹東綺譚」を映画にしたいと思ったのは、そうした小説の魅力からだけではありません。荷風の生き方に魅力を感じたからです。荷風の生き方の根底にあるのは、「自由に生きる」「自分らしさを貫く」ということです。そんな反骨精神があったからこそ、軍事色に染まる時代にあって「濹東綺譚」を書き上げることができた。

荷風は最後まで他人に遠慮せず、自分に忠実に生きた。一人で生きて一人で死んでいった。そんな生き方を僕もしてみたい。荷風は僕のあこがれの人です。

(更新日:2012年04月18日)

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