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国鉄京浜東北線の桜木町駅で焼死者106人を出した63形車両は、太平洋戦争中の1944(昭和19)年春に登場した。
物資が欠乏し、すべては陸海軍優先。鉄不足のため複線を単線にしてレールを供出させたほど軍の力は強かった。設計担当だった北畠顕正さん(故人)が「安く人手をかけず早く造れ。寿命は犠牲にしてもいいと命令された」と回想した63形は、鋼板を2.3ミリから1.6ミリに薄くし、屋根は木製で布張り。天井は骨組みがむき出しで、照明は裸電球。軍需工場への人員輸送に使うすし詰め専用車両だった。
3段に区切った窓が外観の特徴だった。中段を固定し上下段を開けて、混雑時でも立ち客、座り客の双方に風を送る狙いと説明されたが、本当はガラスの節約。枠が多ければガラスが少なくて済む。鋼管に通すはずの配線類も床下に木で棚を作りテープで巻いてとめた。視察に来た東条英機首相に寿命を聞かれ、鉄道省幹部は苦し紛れに「大東亜戦争完遂までは……」と答えるしかなかった。
「バラック電車」と揶揄(やゆ)されつつ、63形は戦後5年で900両以上量産され、復興期の激増する旅客輸送を担った。
大事故の予兆はあった。東京・高円寺など3カ所でいずれも床下から出火。国鉄で新幹線総局次長を務め、今は国連開発計画(UNDP)の上級アドバイザーを務める斎藤雅男さんは「何とかしたくてもカネも物資もない。占領下でGHQの了解も必要だ。敗戦後6年たっていたが、車両は戦争中そのものだった」と振り返る。
斎藤さんによると、戦争中は熟練工を兵隊にとられ、43年以降は一切の車両で定期検査、修繕をしていなかった。粗悪な材料を使いボイラーが爆発するという信じられない事故を起こした蒸気機関車もあった。




1951(昭和26)年4月24日午後1時42分ごろ、横浜市の国鉄桜木町駅構内で、碍子(がいし)取り換え作業中のミスで架線が切れ、垂れ下がったところへ1271B電車が進入、架線とパンタグラフが絡まりショートして火花が発生、木製屋根が発火した。1両目は全焼、2両目は半焼して乗客106人が死亡、92人が重軽傷を負った。
事故の反省から、車両の難燃化や貫通路の設置など車両火災への対策が進んだ。
粗悪で危険な車両を使っていたとして国鉄は大きな非難を浴び、2代目の加賀山之雄総裁は引責辞任。工事担当者や運転士ら現場の6人が起訴され、うち5人が禁固刑の有罪判決を受けた。横浜市鶴見区の総持寺に犠牲者を悼む桜木観音がある。






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