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宿坊に泊まり、勤行、瞑想を体験する旅〜和歌山・高野山

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参拝者を迎える普門院の山門

日が落ちると寺の山門は閉まり、人通りはぱったり絶える。

東京から新幹線とケーブルカーを乗り継いで5時間半。宿坊を目当てに12月中旬、二泊三日の旅に出かけた。和歌山県の高野山駅に着くころには、夕方になっていた。

初日にお世話になる普門院は、高野山の開祖である弘法大師空海に出家を勧めた高僧勤操が建立したといわれる。いわば、空海の師匠の寺だ。小堀遠州作と伝えられる庭をはじめ、国宝「勤操大徳像」などが伝わる。

黙々と掃除をする普門院の僧侶
普門院の洋室にあるホテルのようなベッド

夕食までの間、庭を眺めながら渡り廊下を歩く。澄み切った空気、りんとした静寂、冬ならではの味わいがある。

本堂へ目をやると、修行中の僧侶が窓ガラスを磨いていた。ちり一つない寺内だが、かしこまった雰囲気は感じられない。いつもと同じように掃除をし、食事を作り、寝床を整え、朝を迎える。そんな流れの中に、来訪者である自分も自然と入っていく。

泊まるのは2階の庭に面した洋室。ドアを開けると、フローリングの室内にベッドが二つ。窓際は畳敷きの小上がりになっており、部屋全体は約40平方メートルと広い。簡素な和室という従来の宿坊とは違う、ホテル並みの設備に驚かされる。大型液晶テレビにクローゼットや洗面台もある。トイレは最新型の洗浄便座だ。

元々は和室だったが、トイレが部屋の外にあるなど不便な点が多く、ほとんど使われていなかった。ベッドの要望は以前から寄せられおり、2007年4月、近藤本淳住職(45)が業者と相談しながら、洋室の宿坊に生まれ変わらせた。

「高齢者の人にも心地よく参拝してもらいたかった」と近藤住職。和洋室のある棟にはエレベーターを設け、車いすの人でも泊まれるよう、バリアフリーにした。室内は白と濃い茶色で統一して、寺の雰囲気を壊さぬ配慮をしている。

評判は上々で、他の宿坊関係者が見学に来ることもあるという。部屋数は約20で、洋室は5室ある。

夕食の精進料理は、庭に面した1階の別室で。ダイニングテーブルに、煮物や鍋、天ぷら、豆腐など10品が並ぶ。旬の野菜の趣向を凝らした盛りつけに思わず、見とれた。生ふときのこ、豆腐の小鍋、カボチャやしいたけの煮物には高野豆腐も。気が付けば2合のおひつは空っぽになっていた。

夜、照明を消し、空調を切ると、完全な闇と無音の世界だ。落ち着かなかったのは最初だけで、持参した本は開かず、安らかな静寂を楽しんでみる。結局、ページはめくらぬまま、眠ってしまった。

翌朝午前5時、勤行に参加するためベッドを出る。寝坊を心配したが、目覚まし時計が鳴るより早く起きていた。本堂の奥から鐘の音が聞こえる。足を踏み入れると、床暖房のほのかなぬくもり。正座ができない人のために、いすも用意されている。細やかな心配りがうれしい。

いすも用意されていた普門院での朝の勤行

午前6時半、明かりが抑えられた堂内で、住職の読経が始まる。参加者は自分1人だけだった。以前、法事で聞いた時にはわからなかった微妙な抑揚や速さの違いに気づく。開山以来、高野山にあるすべての堂で続けられてきた朝の勤行。山の中にこだまする僧侶の声を想像すると、足のしびれはともかく、自然と背筋が伸びる。

勤行が終わり堂を出ると、朝食が用意されていた。朝の光に姿を現し始めた庭の木々を眺めながら、食事をいただく。寺の名前「普門」には、「誰でも入れる」という意味があるという。その名にふさわしい心遣いを堪能し、門を後にした。

午前中から山内の散策へ。行き先も決めず、街並みを眺めながら、ぶらぶらと歩く。

根本大塔の下を通り過ぎる僧侶の一群

仏都といわれる場所だけあり、次から次へと色々な寺に出会う。高野山は南北に約3キロ、東西約6キロ。周囲をいくつもの峰が囲む盆地は、はすの花にたとえられる。「一山境内地」という考え方に基づき、山全体が一つの寺として位置づけられている。総本山金剛峯寺の金堂が本堂にあたり、山内に点在する寺は「塔頭寺院(たっちゅうじいん)」と呼ばれている。現在、その数117寺。そのうち53寺が宿坊として参拝者を受け入れている。

山内の建物はたびたび火災にあっており、創建当時は別の場所にあった寺も少なくない。復興に必要な巨額の資金を賄ったのは、大名ら支援者だった。最盛期、山内には2千を超える寺院があったと言われ、有力者とのつながりがない寺は、姿を消していったことになる。

やがて商店街に出る。まず目に入ったのは、大きく「般若湯」と書かれた看板だ。僧侶の間でお酒を意味する隠語で、店内には「般若湯」という銘柄の日本酒が並んでいる。近くの雑貨屋や食堂などは、どこも控えめな店構えで、派手な看板もない。寺に囲まれた商店街といった趣で、下界の街と逆の構図が面白い。

山内の中心地である金剛峯寺の門をくぐると、やがて根本大塔の柱が迫ってくる。高さ約50メートル。真言密教の世界観を象徴する建造物だ。広い敷地内にそびえる巨大な姿は、どの建物よりも際立った迫力がある。僧侶の一群が大塔の下を通り過ぎた。朱色の柱と黄土色の法衣の組み合わせ。絵巻のような光景に目を奪われる。

午後、高野山に伝わる文化財を保護管理する霊宝館を訪ねた。2004年に世界遺産に登録された高野山には、年間120万人が訪れるが、霊宝館まで足を延ばすのは6万人ほどだという。霊宝館を運営する高野山文化財保存会の山口文章課長は、「霊宝館は他に例を見ない密教美術の宝庫。高野山まで来たなら一度は足を運んでほしい」と話す。山内の名所旧跡を回ろうとすると、日帰りでは時間的にきつい。宿のある身をありがたく思う。

霊宝館の本館は1921年に建てられ、建物自体も国の登録有形文化財に指定されている。重厚な扉、高い天井など、宝物館と呼ぶにふさわしい。

仏像の展示室に入り、展示物との近さに驚かされる。堂の奥深くに鎮座しているはずの仏像に、目と鼻の先で相対する。自分の背丈の2倍以上ある不動明王が眼前に立っている。かすかに残る塗料の痕跡。仏師の息遣いまで伝わってくるようだった。

高野山の東の端にある奥の院は、聖地にあたる場所だ。空海が今もこの世に身をとどめているとされ、参拝者のほとんどが訪れる。

そこに至る道筋に立つ数々の墓石は、高野山が多くの人々の信仰を集めてきたことを物語っている。参道を挟んで上杉謙信と武田信玄の墓碑が対面していたり、高野山に攻め込んだこともある織田信長の供養塔があったり。住職の一人に聞くと、遺族の願いで立てられたため、不思議な風景が出来上がったのだという。「本人はさぞかし不本意なのかもしれませんが、お参りする方にとっては、高野山にお墓があることで安心できるようです」と教えてくれた。

帰り、一人の女性と言葉を交わした。「大事なとき、お大師様が現れはって、導いてくれるのです」。仕事で忙しい合間を縫って、大阪市から日帰りでお参りに来たのだという。横を僧侶が小走りで通り過ぎ、弘法大師の御廟(ごびょう)前で深々と頭を下げる。人々の心のよりどころとして、今も存在し続けている「お大師信仰」の一端を垣間見た気がした。

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