年をとるにつれ昔の出来事の記憶は薄らいでいく。だけど、あの4人に関する「この日」だけは、忘れてしまいたくはない。20世紀最高のファブ・フォーをこよなく愛する人たちへ。ビートルズの4人にまつわる日付を手がかりに、思いつくまま、気の向くまま、つらつらと記していきます。
1966年9月14日、口ひげを伸ばしたジョージ・ハリソンは妻パティ・ボイドを伴ってインドへ向かった。ビートルズは8月の米国ツアーを最後にライブバンドとしての活動に終止符を打つ。帰国すると、ジョンが映画「ジョン・レノンの僕の戦争」のロケでドイツ、スペインへ飛ぶなど、メンバーは単独活動を活発化させていた。
ハリソン夫妻はムンバイ(ボンベイ)のタージ・マハール・ホテルに「サム・ウェルズ夫妻」という偽名でチェック・インした。だが、新聞記者に身元を見破られてしまい、ジョージは、1000キロ近く離れたヒンドゥー教の聖地バラナシで、シタールの名手ラビ・シャンカールのレッスンを受けるためにインドへ来たことを仕方なく明かした。
シタールは9本の弦、稼働可能なフレット、下部の振動弦が備わったインドの弦楽器である。
ジョージがシタールに興味を持ったのは、前年の65年に制作された映画「ヘルプ」の撮影がきっかけだ。インドレストランで、インド人の楽団が演奏する中、男がスープの中に投げ込まれるギャグ・シーンがあるが、この撮影の合間に初めてシタールを手にとってみて「変な音がするな」と思ったらしい。
シタールを手に入れると、今度はラビの名前を何度も耳にするようになった。そしてザ・バーズのデヴィッド・クロスビーと話していてラビの名前を聞いたときには、即座にラビのレコードを買いに行った。
「ぼくの中のある部分が強く揺さぶられているのがわかった。ぼくの知性は理解していなかったんだけど、ぼくの残りの部分はなぜかそれと一体化していたという感じかな」。22歳。インド音楽に魅了される。
ビートルズが初めてシタールを採り入れたのは、65年12月に発表したアルバム「ラバー・ソウル」の収録曲「ノルウェーの森」だ。
しかし、シタールを入れようと言い出したのは作者のジョンだった。曲に彩りを添えるため、ジョージが持っていたシタールで「ディー、ディドリー、ディー」というフレーズを弾けないかと考え、実際にギターで「こんな風に」と弾いて見せた。
ジョージは「自信はないけど、何とかやってみるよ」と答えた。ジョンの期待に応えようと一生懸命に練習をしたのだろう。アルバム「アンソロジー2」に収録された初期の別テイクを聴くと、その自信のなさがつたない旋律とともに伝わってくる。
さて、ジョージが持ち前の探求心の強さを発揮するのは、ここからだった。
66年8月に発表されたアルバム「リボルバー」では、シタールのための初めての自作曲「ラヴ・ユー・トゥ」を発表する。シタールのほか打楽器タブラも採り入れ、インド音楽とロックを融合させた意欲作だ。「脱アイドル」の方向性を象徴する曲になった。
このころロンドンではちょっとしたシタールブームが起きていた。キンクスとヤードバーズがインド音楽に影響を受けたシングルを出し、ローリング・ストーンズはブライアン・ジョーンズが達者なシタール演奏をみせる「黒くぬれ」で、3枚目の英国ナンバーワンを獲得した。
ジョージがラビに初めて会ったのは、「リボルバー」の録音が最終段階に入った同年6月。場所はロンドンにある共通の知人宅だった。
ラビは、ジョージに、シタールの独学は愚行であるとただし、弟子入りをすすめた。そして、インド音楽の「言葉」にすんなりとけ込むために、インドを訪れ、生活のリズムを肌で感じるべきだとを主張した。
ジョージはラビの言葉に素直に従った。それまでジョンとポールに逐一指示を受ける不快さに常に耐えていたが、そうした忍耐とは明らかに違う謙虚な態度だった。
ハリソン夫妻はインドに約5週間滞在し、10月22日にロンドンに戻った。カシミールでハウスボートに宿泊したり、バラナシで宗教的な祭りを体験したりしてインドや東洋思想への興味を広げた。
この旅の成果は、67年6月発表のアルバム「サージェント・ペパー」に収録された「ウイズイン・ユー・ウイズアウト・ユー」で聴くことができる。シタールや打楽器タブラのほか、弓で弾くディルルーバ、琴に似た形のソードマンデル、弦楽器タンブーラといった「インド土産」がちりばめられている。
ジョンは「ジョージの最高傑作のひとつ」と率直に才能を認めた。
68年3月に発売したシングル盤「レディ・マドンナ」のB面「ジ・インナー・ライト」は、ジョージ初のシングル・リリース曲となった。インド人ミュージシャンでボーカル以外の全パートが録音されている。サイケ映画「ワンダーウォール」のサントラ盤であり、ジョージ初のソロ作品「不思議の壁」もインド音楽に取り組んだ成果といえる。
バンド解散後の71年には、ラビの頼みを受けて「バングラデシュ難民救済コンサート」を開催した。ラビの父の出身地がバングラデシュにあり、親類や友人が難民のなかにいた。
ラビはジョージの単なる音楽の師にとどまらず、信仰の指導者になり、父親代わりの存在にもなっていく。

ビートルズの「リボルバー」のジャケット・デザインを手がけた、画家でありベーシストのクラウス・フォアマンのイラスト&エッセイ集「ザ・ビートルズ/リメンバー」が発売されました。著者はビートルズの初期時代からの知り合い。一緒に青春を過ごしてきた人物です。

上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。

(更新日:2007年09月14日)
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