年をとるにつれ昔の出来事の記憶は薄らいでいく。だけど、あの4人に関する「この日」だけは、忘れてしまいたくはない。20世紀最高のファブ・フォーをこよなく愛する人たちへ。ビートルズの4人にまつわる日付を手がかりに、思いつくまま、気の向くまま、つらつらと記していきます。
浮き彫りになったアルバムタイトル。通し番号を付けただけの真っ白なジャケット。「ホワイト・アルバム」の愛称で呼ばれる通算9枚目のオリジナルアルバム「ザ・ビートルズ」は、計94分間に30曲が収録された初の2枚組アルバムだ。
ロック、ポップス、フォーク、ジャズ、ブルース、クラシック、レゲエ、アヴァンギャルド……。実に多種多様な楽曲が詰め込まれ、聴き手を飽きさせない。
レコーディング・セッション(録音)は1968年5月30日から始まり、アルバム用に32曲を録音して10月14日に完了した。さらにA面からD面の曲順を決めるため16日昼間から24時間の作業が追加された。
選曲は、最初に力強い曲を配して、あとに続くのが困難なタイプの曲で締めくくるという「ジョージ・マーティン方式」を採用。ジョージ・ハリソンの4曲を各面に1曲ずつ散らし、同じ作曲者の作品を2曲以上続けないようにした。
ヘビーなロックナンバーはC 面に集まり、「ブラックバード」「ピッギーズ」「ロッキー・ラックーン」の動物の名前をタイトルに持つ曲はB面に並んだ。「ノット・ギルティ」と「ホワッツ・ザ・ニュー・メリー・ジェーン」の2曲をはずした。
前作「サージェント・ペパーズ」同様、曲間を3秒以上の空白を置かないようにつなぎ合わせて編集している。タイトルは無題のポールのアドリブ曲「キャン・ユー・テイク・ミー・バック・フェン・アイ・ケイム・フロム」は、「レボリューション9」の導入部に使われている。
収録された曲の多くは、68年2月に4人が休暇を過ごすため訪れたインドでつくられた。
ヨガの導師であるマハリシ・マヘシ・ヨギが唱える超越瞑想(めいそう)に参加するため、妻や恋人を連れて聖地リシケシュにある瞑想アカデミーに入学。しかし、食べ物があわないリンゴは10日で退散し、ポールも40日で根を上げた。
熱心だったジョンとジョージは2カ月とどまったが、マハリシが女性修行者に手を出そうとしたという噂にジョンが激怒して2人は山を下りる。このあてこすりの歌が「セクシー・セディ」だ。
5月の3週目ごろ、4人は英国南部のサリー州イーシャにあるジョージの別荘「キンファンス」に集まり、23曲のデモ・テープをつくる。ポールの「ジャンク」、後に詞が入れ替わって「ジェラスガイ」となるジョンの「チャイルド・オブ・ネイチャー」、ジョージの「サークル」などソロになってから発表された曲もあった。
約4カ月半の長きにわたったアルバム制作中は、メンバー間の衝突が表面化した時期でもあった。
避けて通れないのはオノ・ヨーコの存在だ。ジョンとの仲は、録音が始まる直前に開いたアップル・ブティック2号店の開店祝賀会に2人で公然と姿を現すほどに発展していた。アメリカで育ち男女平等の気風にふれているヨーコは、ジョンと一緒にスタジオ入りするだけでなく、平気で録音にも参加した。
4人が育ったイングランド北部には、男の仕事に女が口出しするのは許し難い気風が残っていた。実際、スタジオでの作業は4人だけの場であり、彼らの妻や恋人が割り込むことはなかった。だから、スタジオで片時もジョンのそばを離れず、セッションに口出しもするヨーコに、ほかの3人は神経を逆なでされた。
波風を立てたジョンが守勢に回ると、ブライアン・エプスタインの死を境に、リーダーとして頭角を現してきたポールの振る舞いが目につき出す。マルチ・タレントぶりを発揮して、夜中に1人でスタジオにこもり、勝手に曲の録音を完了させてしまうこともあった。ジョンは苛立った。ないがしろにされたリンゴは、ある日、ドラミングをポールに非難されてキレた。スタジオを飛び出し、2週間ほどグループを「脱退」する。こうしたいがみ合いに耐えきれなくなり、「リボルバー」以来のエンジニアを務めてきたジェフ・エメリックはスタジオを離れてしまう。しまいにはジョージ・マーティンも録音の終盤に1カ月の休暇をとってしまう。
ソ連軍がチェコスロバキアに侵攻した68年夏、ビートルズはスタジオにこもりっきりになった。プロデュースやリミックスなどアルバム制作はすでに彼らの手中にあった。1曲に100テイク以上も録音をかけるかと思えば、セッションミュージシャンを雇っておきながら録音をしない日もあった。
ハリソンは相変わらず第3の男だった。「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」の録音を始めたのは、「スタジオ入り」から2カ月近くになる7月下旬だった。「ジョンとポールの曲を10曲ぐらいやってからでないと時間がもらえないから」
ところが、「泣きのギター」が必要なこの曲に元クリームの名手エリック・クラプトンを起用したことで、スタジオの雰囲気は一変した。起用を提案したハリソンは「メンバー以外の他人が来ると、みんなお行儀が良くなるんだ。あれ以来みんなもっと本気になった」。レス・ポールで弾いたクラプトンのソロは文句のつけようがない演奏だった。録音は9月6日のたった1日だけで完了。4人は、残り1カ月余りで手つかずだった14曲の録音もすませた。「クラプトン効果」の現れである。
翌年1月から始まり、やはり迷走した「レット・イット・ビー」セッションでは、クラプトンの役をビリー・プレストンが演じることになる。
昔の音楽評論誌を読むと、「ロック音楽の金字塔」と絶賛された前作「サージェント・ペパーズ」と比べて、「散漫だ」と評価されていた記憶がある。前作のコンセプト・アルバム色が払拭(ふっしょく)され、メンバーのソロ作品の集合体のような「まとまりのなさ」が相対的に低い評価につながっていたのだろう。
しかし、新作を8カ月も待たされたファンはビートルズの音楽に飢えていた。ギネス・ブックには、米国発売から1週間で「200万枚近く」売り上げたレコードと記載している。発売1カ月で世界中の売り上げは400万枚以上に達し、70年末までに650万枚を超えた。2枚組アルバムの売り上げ記録としては、77年に「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ盤が記録を塗り替えるまでナンバー1の座を保っていた。
レコードと格闘するように正対に向き合い、ロック音楽を聴いていた時代は去った。ダウンロードした曲がバラ売りされる時代だ。けれども、4人の個性が激しくぶつかり合ったホワイト・アルバムの輝きが衰えることはない。


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上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。

(更新日:2007年10月12日)
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