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この日のビートルズ

4月10日甲虫日記 5人目のビートル

人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。

「アンソロジー」1〜3のCDジャケットすべてに、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴと並んでサングラスをかけた男が登場する。

男の素顔は、8枚目のオリジナル・アルバム「SGT.PEPPER」のジャケット左隅に見つけることができる。

「5人目のビートル」と最初にみなされ、1962年4月10日、21歳の若さでこの世を去ったスチュアート・ファーガソン・ビクター・サトクリフだ。死後30年も過ぎた93年、イアン・ソフトリーが制作した映画「バック・ビート」で脚光を浴びた。

通称スチュ。リヴァプール美術カレッジにジョンよりも1学年早く入学した。のちに音楽誌「マージー・ビート」を創刊するビル・ハリーとは専攻課程は違ったが、文学や芸術、映画、哲学について語り合った仲だった。

どことなく謎めいた神秘性が漂う。「ジェームズ・ディーンの真似」と書いた伝記本もある。だが、正しくはない。濃い色のサングラスをかけていたのは、アンジェイ・ワイダ監督の映画「灰とダイヤモンド」(58年)の主演俳優ズビグニエフ・チブルスキーを意識してのことだった。

カレッジと同じ建物にポールとジョージが通うリヴァプール・インスティテュートがあった。2人はすでにジョンのグループ「クオリーメン」の主要メンバーで、休み時間になるとカレッジの学生食堂に出かけたり、集会室で練習をしたりしていた。

そんな環境に身を置いたスチュが、次第にジョンと知り合い、グループの支持派になっていったと容易に想像できる。実際、ジョンとスチュとビルは、暇な時にはカレッジの近くにある「イー・クラック」というパブや学生用アパートにたむろする仲間になった。

当時人気があった書物は、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」とJ・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。スチュは、存在の意味を探求する神秘主義に強い興味を示し、自分たちの経歴や経験を芸術のなかに取り込むにはどうすればいいのかについて、ジョンたちと議論したという。

「学校創設以来の最も優秀な学生」と高く評価する教師もいた。59年11月、ジョン・ムアーズ展に出品した抽象画「サマー・ペインティング」が入選。作品は翌年1月、65ポンドで買い上げられたが、スチュはその金を元手に弾いたこともないベース・ギターを手に入れる。

そのころ、ジョンはグループにベース奏者を必要と考え、数人の仲間に参加を打診していた。スチュもその1人だった。ところが、ビルは反対した。絵に対して抱いていたのと同じ圧倒的なエネルギーを、楽器も弾けないスチュが演奏活動にも示したため、「絵のほうがだめになってしまう」と危惧したからだ。

スチュはビルの反対を押し切ってメンバーになり、バックバンドとしてのスコットランド遠征や60年8月からの初のハンブルク巡業に参加した。

グループ名をビートルズ(Beetles)にしようと最初に言い出したのはスチュだ。ジョンが「e」の1個を「a」に直した。スチュが「甲虫」を思いついたのは、彼らが崇拝していたバディ・ホリーの伴奏バンドのクリケッツ(こおろぎ)に似ていたから、というのが通説になっている。

しかし、グループに音楽的な貢献をしたとは言い難いようだ。

稚拙な演奏を隠すためにステージでは観客に背を向けて演奏し、持ち歌はエルビス・プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」だけ。写真家アストリット・キルヒヘルと知り合って2カ月足らずで婚約すると、関心の方向は再び美術へと戻っていった。

スカウトが注目するくらいのグループに成長することを目指していたポールにとって、スチュの演奏技術は不満の対象だった。ある晩、ポールがアストリットのことをあれこれ言ったことで2人はステージ上で、とっくみあいのけんかになった。

ジョンがスチュをグループに誘った理由は、音楽的才能や演奏能力が高いことを認めたポールとジョージとは明らかに違う。グループ活動を発展させようとしてベース奏者を探したのと同様に、スチュの知識の広さと美術的才能が、新たにグループを形成する上で重要だと考えた。

ビル・ハリーは著書にこう記す。「神秘的な雰囲気、思慮深い感じの端正な容姿、それに知性は、グループにとって重要な意義を持つものだった」

初のハンブルク巡業はジョージが国外追放処分を受けるなど「失意の帰国」に終わったが、スチュはハンブルクに残ってアストリットと暮らした。

61年3月、ビートルズは2度目のハンブルク巡業に。5月、スチュとジョンは、アストリットとシンシアを連れ、4人でバルト海へドライブに出かける。ほどなくして、スチュはグループ脱退を決意し、絵画制作に専念することをジョンに告げた。

病魔に冒されて命を落とすまで1年もなかった。寝床で意識不明になっているのをアストリットが気づき、救急車を呼んだが、病院に送られる途中、彼女に抱かれたまま息を引き取った。死因は「右脳室出血による脳機能停止」。

翌日、ビートルズは3度目の巡業のためハンブルク空港に着いた。出迎えたアストリットに悲惨な知らせを告げられたジョンは、ヒステリックに笑い出し、誰も止められなくなった。ビートルズがパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ、2カ月前の出来事だった。

「人生ははかなく短い」というジョンの1行が光る「We Can Work It Out」、「この世を去った者、この世にとどまる者」と故郷リヴァプールを懐かしむ「In My Life」、「どこにも存在しない男」を歌った「Nowhere Man」。

いずれも短命で世を去ったスチュを意識しているかのような作品だ。

「この日のビートルズ」の次回は、4月28日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。

お知らせ

スチュアート・サトクリフがビートルズとして演奏した音源は、アルバム「ANTHOLOGY 1」で「ハレルヤ、アイ・ラヴ・ハー・ソー」「ユール・ビー・マイン」「カイエンヌ」の3曲、映像版では、「アイル・フォロー・ザ・サン」「ハレルヤ、アイ・ラヴ・ハー・ソー」「ワン・アフター・909」「アイル・オールウェイズ・ビー・イン・ラヴ・ウイズ・ユー」の4曲が聴ける。いずれも1960年5月、ポールの自宅でリハーサル・セッションが行われたときに録音された。

ジャケット写真

「アンソロジー1」CD版

  • 2004年4月14日  EMIミュージック・ジャパン

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「アンソロジー」DVD版

  • * 2003年4月25日  EMIミュージック・ジャパン

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Profile

上林 格(かみばやし・さとる)

1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。

(更新日:2008年04月10日)

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