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人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
1967年7月31日、ロンドンのカーゾン・ストリート17番地にある「ラジオ・ロンドン」のオフィスにリンゴ・スターがひょっこり顔を出した。
ラジオ・ロンドンは当時、英国で隆盛を極めた「海賊放送局」のひとつ。だが、電波法の改正によって海賊放送は当局の取り締まりの対象となり、永久に閉鎖されることになった。リンゴは局長フィリップ・バーチとともに、短いお別れのメッセージを録音した。そのメッセージは、最後の放送日となる6日後の8月5日に流された。
かつてヨーロッパには、市民が聴きたい番組を勝手に制作して流す海賊放送局が盛んだった。国営放送が電波を独占していた国が多かったことが理由とされる。
英国放送協会(BBC)ラジオが独占していた英国でも、64年になると海賊放送が続々と現れた。
BBCラジオ番組のお堅いクラシックやぬるーいポピュラー音楽に飽き足らないポップス・ファンを当て込み、千トン級の船に放送設備を積んで、海上から放送した。
初期のビートルズは拡販の場をラジオに求めていた。
「ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ」という15回シリーズのワンマンショー番組を含め、63年には45回もBBCラジオのポップス専門チャンネルに出演した。生演奏は40回に及ぶ。それが64年には18回に減り、生演奏は8回。さらに65年は7回に減り、生演奏は1回だけ。以来BBCラジオに出演しての生演奏はない。
海賊放送のなかには、24時間ひっきりなしにビートルズの曲をかける放送局もあった。名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を、レコードにプレスされる前に丸ごと放送したのはラジオ・ロンドンだった。
海賊放送が勝手にどんどん宣伝してくれるため、ビートルズはコンサートや映画、テレビの出演に忙しいなか、プロモーションのためにわざわざBBCラジオに出演するメリットがなくなったわけだ。
一方、海賊放送局の出現で頭を悩ませたのは、ポピュラー・レコードの売り上げが激減したレコード会社だった。政府に圧力をかけて電波法を改正させ、海賊放送は違法となった。67年8月、海軍が公海上の海賊放送船の一掃に乗り出した。
冒頭のリンゴのインタビューは、海賊放送を支援してきたビートルズを代表したリンゴがラジオ・ロンドンに赴いた、というわけだ。
海賊放送はビートルズ以外の英国のミュージシャンにも支持されていた。
ザ・フーは67年、サードアルバム「ザ・フー・セル・アウト」を発表。初期の頃からシングルを頻繁にオンエアしてくれた海賊放送局へのトリビュートとして、アルバム全体を架空のラジオ放送のようにまとめたコンセプトアルバムだった。
インターネットが普及したいま、非公開の映像や音源も容易に視聴できる。ところが40年以上前は、情報を伝えるメディアの種類も情報量も限られていた。音楽に取り憑かれた若者にとって、ラジオの音楽番組は新たな地平を切り開く魔法の杖だったはずだ。
50年代後半、機械工見習いをしながらドラム演奏に熱を入れ始めていたリンゴは、ルクセンブルク公国にあるラジオ・ルクセンブルクを毎晩聴いていたという。「どんなに音が悪くても、毎晩違う音楽が聴けたからね」
僕に音楽への扉を開いてくれたのもラジオ放送だった。70年代中頃から後半にかけて、在日米軍のラジオ放送FEN(極東放送、現在のAFN)の「全米トップ40」とか「ウルフマンジャック・ショー」はかかさず聴いていた。渋谷陽一がDJの「若いこだま」や「ヤングジョッキー」は必須科目だった。歌謡曲やフォーク全盛だった日本の音楽シーンとは別の世界があったからだ。
話題を英国の海賊放送に戻そう。ラジオ・ロンドンの伝説的なDJといわれるのがジョン・ピールである。
T・レックスのマーク・ボランは、「ピールは、まだ誰も知らないようなかっこいい曲をかけるんだ。無名だろうがどこの国のアーティストだろうが、関係ない。逆にどんなヒットしている曲でも、彼が認めなければ絶対にかからないのさ」と絶賛している。優れたアンダーグラウンド・バンドをいち早く見つけ出す感覚が特徴だった。
BBCは海賊放送の人気を無視できなくなっていた。67年秋、海賊放送が一掃されると、若者向けの新しいFM局「BBCラジオ1」を立ち上げた。DJにはジョン・ピールを抜擢した。セックス・ピストルズ、クラッシュ、スミスなど、彼が紹介し、後の音楽シーンで重要なバンドになったアーティストの数は枚挙にいとまがない。
ピールは86年、BBC音源をリリースするレーベル「ストレンジ・フルーツ」を設立。「BBC音源」は、ビートルズが94年に「ザ・ビートルズ・ライブ・アット・ザ・BBC」をリリースして一気に火がついたが、ピールはその前から「BBC音源の蔵出し」に力を尽くしていた。
2004年10月27日、休暇で滞在中のペルーで心臓発作のため亡くなる。享年65歳だった。
「この日のビートルズ」の次回は、8月11日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。

「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は、ライブ活動を停止したビートルズが架空のバンドに扮しショウを行うというアイデアをもとに制作された。アルバム・ジャケットをはじめ、曲間のない演奏、歌詞を掲載した裏ジャケットなどアルバムをひとつの「アート」として完成させ、他のミュージシャンに多大な影響を与えた。英国では22週連続1位。67年度グラミー賞4部門を受賞。


上林 格(かみばやし・さとる)
1962年生まれ。この年、ビートルズが「LOVE・ME・DO」で英国デビューした。1986年、朝日新聞社に入社。東京本社社会部、地域報道部、東京総局など勤務。東京版で「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」を連載した。

(更新日:2008年07月31日)
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