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人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
ジョージの没後10周年。マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画「ジョージ・ハリスン/リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」が日本で公開されている。
1942年生まれのイタリア系米国人の映画監督は、ロック最盛期の60年代に青春時代を過ごした。ボブ・ディランやローリング・ストーンズら大物ロック・ミュージシャンの映像作品も手がけている。新作は3時間30分に及ぶ長編だが、ジョージにまつわる関係者の興味深いインタビューの連続に最後まで飽きることはなかった。
例えば、演奏方法を巡ってポールと口論する映画「LET IT BE」のシーンは有名だ。撮影後、ジョージが一時バンドを抜けたのも事実。しかし、「エリック・クラプトンを入れよう」とジョンが提案した話は、それほど知られていない。そのオファーをクラプトン自身がどう思ったのかを、本人が明かす。そして、死期を悟ったジョージが病床を見舞ったリンゴと交わした最後の会話とは……。
数多くの秘蔵写真や映像も見られる。なかでも、ビートルズ時代に撮影されたディランとのツーショットは印象的だった。ひげを剃(そ)り落として若返ったジョージと、ギターを小脇に抱えるディランがソファで向かい合う。2人ともすてきな笑顔だ。
1968年11月28日、ジョージはニューヨーク郊外のウッドストックにあるディランの自宅を訪れた。映画で見た写真は、恐らくその時に撮影されたものだろう。
ビートルズは64年夏、米国ツアー中にディランと知り合う。4人の中でディランと親交が深かったのは、ジョンだった。65年にツアーで英国を訪れたディランは、ジョンの自宅で妻シンシアの手料理による歓待を受けている。ジョンは、ディランが手がけたドキュメンタリー映画(未公表)にも出演した。
しかし、強力な磁場を発生させる者同士の交流は、お互いの才能への嫉妬(しっと)や疑心が絡んで次第に冷めていったらしい。67年7月、オートバイ事故に遭ったディランが音楽シーンの表舞台から一時遠ざかると、2人の関係は疎遠になってしまう。
68年、ジョンにはオノ・ヨーコというパートナーが生まれた。強い絆(きずな)で結ばれたビートルズの4人に微妙な変化が起こり始める。約半年に及んだ2枚組アルバム「THE BEATLES」(通称・ホワイトアルバム)のセッションは、リンゴの一時グループ脱退など「終わりの始まり」を予感させるものになった。そんな時期、ジョージはそれまで以上にディランに強い関心を寄せていた。外の風をジョージに吹き込んだのは、自作曲「While My Guitar Gently Weeps」でリードギターを弾いた、親友エリック・クラプトンだった。
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