これは小さな構えの映画である。舞台は古いビルの屋上にある小部屋を動かないし、登場人物も基本的には5人だけである。経過する物語の時間も映画の長さと同じ百分余りにすぎない。そして、その中で描かれるのも、インターネットを介して知り合った「オタク」たちが、死んでしまった「アイドル」を偲(しの)んで催す私的な集会の一部始終、といったようなものなのだ。
しかし、この徹頭徹尾小さな構えの映画の中には、驚くほど確かなものが含まれている。
まずそのひとつは古沢良太の脚本の確かさである。
もし「オタク」を定義するとすれば、「好み」においてある種の偏りがある人、ということになるだろうか。この映画は、そうした「好み」に偏りのある人たちが自分の偏り具合を誇示し合う集会を描くだけのものと思わせておいて、まったく意表を衝(つ)く展開に持ち込んでいく。
実は、彼らには、それぞれが密(ひそ)かに隠し持っている「アイドル」との「関係」の偏りがあるのだ。それがひとつずつ明らかにされていくことによって、まるで螺旋(らせん)階段を昇(のぼ)っていくかのように、「アイドル」の死をめぐる事実の視野が開けていくことになる。
自殺か、事故死か、殺人か。論議がめまぐるしく変転していくにつれて、「アイドル」である如月(きさらぎ)ミキではなく、「オタク」である彼ら自身の「正体」が露(あらわ)になっていくという手際が鮮やかだ。
この映画におけるもうひとつの確かなもの、それは香川照之、ユースケ・サンタマリア、小栗旬、小出恵介、塚地武雅という五人の男性俳優の演技である。彼らの振幅の大きい演技が、本名を知らないまま、「家元」とか「いちご娘」とかいうネット上のハンドルネームで互いを呼び合う奇妙な集会を、明るい密室劇、コミカルな裁判劇に変えていく原動力となっている。
とりわけ、ドランクドラゴンの塚地武雅は、イメージ通りの「オタク」を体現していながら、物語が進むにつれてそのイメージを大きく裏切っていくという「儲(もう)け役」を演じて確かな存在感を示している。
そして、この映画の最大の確かさは、「好み」において偏りのある人たちの、その対象との「関係」の偏りを露にするという構造を持った物語であるにもかかわらず、描かれる世界が限りなく肯定的だというところにある。
描きようによってはいくらでも否定的になりうる物語のはずだが、監督の佐藤祐市は、最後まで「キサラギ」の世界と住人を肯定的に提出することをやめない。そして、気がつくと、私たちもまた、「オタク」たちが作り出すその密室が、友愛に満ちた理想郷であるかのようにさえ思えてくるのだ。
誰が「アイドル」如月ミキを殺したのか。かりに実際手を下していないとしても、誰に彼女の死の責任があるのか。それが5人の「オタク」の不思議な身勝手さと心優しさの中で明らかにされていく。
この小さな構えの映画は、そこから大きなメッセージを発しようとしたり、分不相応なものを生み出そうとしたりはしない。屋上屋を重ねるようなラストについては多少疑問も残るが、百分余を心地よく過ごしてもらえばいいのだ、という佐藤祐市の潔さは十分に伝わってくるものとして仕上がっているように思える。
掲載:2007年06月12日朝日新聞朝刊紙面
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