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映画散歩

レビュー 映画評論家や著名人による映画レビュー

「銀の街から」沢木耕太郎

ボーン・アルティメイタム 〜記憶を取り戻す「人間への旅」

ボーン・アルティメイタム
© 2007 Universal Studios. ALL RIGHTS RESERVED.

この世の中に実際どれほど記憶を失った人がいるのかわからない。私たちが現実にそのような人に出会ったりすることがあまりないところからすると、さほど多くはないのかもしれない。ところが、小説や映画の世界では次から次へと記憶喪失者が登場してくる。もしかしたら、そうした作品の中の記憶喪失者の数の方が実在する記憶喪失者の数より多いのではないかと思えるほどだ。

それほど記憶喪失者の物語が多く生み出されるのは、私たちが「記憶を失う」ということに対して強い恐怖心を抱くと同時に、そうした不幸を背負った人たちの生に強い興味を抱いているからでもあるのだろう。


ジェイソン・ボーンというCIAの元諜報(ちょうほう)員を主人公にしたこの映画もまた「記憶喪失」がテーマの作品である。殺人マシーンとして改造されてしまったボーンが、諜報員としての傑出した能力を頼りに、改造前の記憶を取り戻そうと旅に出る。改造前の記憶とは人間としての記憶ということだ。いわばこの映画の観客は、そのボーンの「人間への旅」に同行するのだと言ってもよい。

ボーンは記憶を奪った者たちを求めて疾走する。モスクワ、パリ、ロンドン、マドリード、タンジール、そしてニューヨーク。記憶を奪った者とは彼を殺人マシーンのジェイソン・ボーンに生まれ変わらせた者ということになる。彼らを探す旅は、ほとんど父を求めての旅というのと同義である。ボーンは「生みの父」を探し出すことができるのか。ストーリーはその一点に向かって一直線に突き進んでいく。


ストーリーはほとんど一瞬も緩まない。ボーンが存在するということ自体を脅威と感じる「生みの父」たちは、組織を上げて抹殺しようとする。しかし、諜報員として完璧(かんぺき)な能力を備えたボーンは、罠(わな)の一歩手前で巧みにすり抜ける。あるいは、罠を鋭く切り裂いていく。その信じられないほどの鮮やかさは、見ている私たちにカタルシスを与えてくれさえすれ、決してご都合主義的な展開とは思わせない。なぜなら、私たちは、このシリーズの前2作までの積み重ねによって、ボーンの卓越した能力については無条件に受け入れる用意ができているからだ。

この鋼の線のように張り詰めたストーリーも、最後の「父殺し」に至る場面でわずかに緩みかかる。だがその緩みも、最後の最後に、この硬質な物語にほんの少しだけ人間的な温(ぬく)もりを導入するための巧妙な伏線であったことがわかる。


ジェイソン・ボーンを主人公としたこのシリーズが生み出されて5年になる。あらためてその第1作「ボーン・アイデンティティー」を見てみると、当時のマット・デイモンがまだ肉体的にもひ弱で面影も幼かったことに驚かされる。しかし、この「ボーン・アルティメイタム」の彼は、殺人マシーンとして超人的な能力を持ってしまった男の悲しみを演じるのにふさわしい肉体と風貌(ふうぼう)を獲得しているかのように見える。

本来、マット・デイモンという俳優は、取り立ててハンサムでもないが独特の繊細さを持つ「若者」として存在していた。ところが、ここでは肉体性を備えた魅力的な「男」に変貌(へんぼう)していたのだ。その結果、この「ボーン・アルティメイタム」がシリーズ最高のものとなった。多分、マット・デイモンがジェイソン・ボーンという役に追いつくためには五年という歳月が必要だったのだ。

掲載:2007年11月13日朝日新聞朝刊紙面

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