エジプトから来た警察音楽隊が行く先を間違えてイスラエルの砂漠の町に迷い込んでしまう。だが、そこから《言葉も国境も越えて人と人をつなぐ、あたたかい一夜がはじまる》という宣伝文を読んで、私はこんな展開を予想していた。音楽隊は敵性国から来た者としての敵視や反発を受けるものの、やがて何かを契機として理解し合う瞬間が訪れ、楽器の力によって市民レベルの即席音楽会のようなものが始まる……。
ところが、それは見事に裏切られることになった。
単純に言ってしまえば、この映画では何も起こらないのだ。しかし、何も起こらないこの映画には、異なる言語を用い、異なる政治体制のもとで生きている者たち、つまり決定的な「他者」への理解のあり方について、極めて豊かなものが示唆的に語られていたように思える。
この制服姿の音楽隊は、わずか8人の編成でやってくる。空港から間違った路線バスに乗った彼らは、目的地とは一字違いの砂漠の町に降りてしまう。途方に暮れた彼らは、街道沿いにぽつんと立っている食堂で一休みする。空港に戻ろうにも、バスの便は明日までないという。おまけにホテルなどどこにもないと言われてしまう。茫然(ぼうぜん)とする彼らに、しかし善意の手が差し伸べられる。食堂の女主人から、自分の家と、そこに屯(たむろ)していた男の家に分宿したらどうかという申し出を受けるのだ。
そこから、言葉もよく通じない者同士の、奇妙な一夜が始まることになる。
この映画の精神はサッソン・ガーベイという俳優が演じている団長に体現されている。極めて四角四面な性格で、一見つまらない存在のように思える。魅力的な食堂の女主人が気を引くようなことを言っても、調子のいい言葉のひとつも返せない。
だが、そこにはある種の諦(あきら)めが存在するのだ。人間がそう簡単に互いを理解し合えるはずがない。なぜなら、妻でさえ、息子でさえ理解できなかったのだから。ましてや、互いに話す言葉が異なり、たどたどしい英語で意思の疎通を図るしかない相手にどうして微妙な思いを伝えることができるだろう。
団長だけではない。彼以上に英語が話せない他の団員たちも、どうにかして意思の疎通を図ろうとするがうまくいかない。そのため、他人の家に厄介になるという居心地の悪さを黙って引き受けなくてはならないのだ。しかし、そこには、ただ同じ場所にいて、同じ時間を共有しているというだけのことによって、「理解」とは異なるかすかな心の触れ合いが生まれることになる。
この映画は、人は互いに理解できるはずだなどとは語らない。理解できないということによって、理解できないということを当然のこととして受け入れることによって、ほんのわずかな共感が生まれるかもしれないと言っているのだ。
若い監督であるエラン・コリリンのこの人間理解の仕方は、例えば「ロスト・イン・トランスレーション」のソフィア・コッポラの、異国における理解不能性を自分の側の問題として捉(とら)えない単純さと比べる時、はるかに成熟したものに映る。
色の浅黒い白鳥たちが砂漠の町に舞い降り、一晩そこで羽を休めたあとでまた飛び立っていく。見送る者と見送られる者との双方に、不思議な時間を一緒に過ごしたというささやかな「記憶」だけを残して。
掲載:2007年12月11日朝日新聞朝刊紙面
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