激変する中国でも、風土に根差した強固な生き方が存在している土地では、変わるものと同じくらい変わらないものがある、と信じられてきた。たとえば新疆ウイグル、たとえばチベット、たとえば内モンゴル。しかし、「経済」と「環境」の挟み撃ちにあって、変わらないだろうと信じられていたものまで変わろうとしている。とりわけ内モンゴルは、急速な砂漠化がそこに住む人の暮らしを根本から変えようとしている。
若く美しいトゥヤーが暮らしているのは内モンゴルでも乾燥化の激しい草原地帯だ。水が乏しく、自分たちが飲む水だけでなく、羊などの家畜に飲ませる水さえ、遠くの井戸に頼らざるを得ない。トゥヤーはラクダを操り、営々と水汲(く)みを続けなくてはならない。
本来なら、それは男の仕事であったかもしれない。しかし、夫のバータルは事故で足が不自由になり、ほとんど動けなくなってしまっているのだ。二人の幼い子を抱え、トゥヤーはひとり黙々と働きつづける。近所には、奔放な妻に鼻であしらわれている気のいい男が住んでいて、なにくれとなく手助けをしてくれる。しかし、トゥヤーの一家はそれだけではとうてい生活を維持していけないほど追い詰められていく。
ある日、夫のバータルが離婚を口にする。俺(おれ)は姉の家に厄介になるから、お前は別の男と再婚しろ、と。
二人が町の役場で離婚の手続きを済ますと、次々とトゥヤーとの再婚を望む者が立ち現れる。だが、子連れであることを承知で申し込みにきた者たちも、トゥヤーの再婚の条件を聞いて一様にたじろがされることになる。トゥヤーのたったひとつの条件とは、子供たちだけでなく、足の不自由な元の夫も連れていくというものだったのだ。
ここに至り、私たちはこの「トゥヤーの結婚」が、単に苛酷(かこく)な自然に翻弄(ほんろう)される一家を描いた作品ではなく、一種の「純愛」を描いた映画であったことに気づかされる。
女の「純愛」は一直線で力強く、男の「純愛」は頼りなげでどこか切ない。だが、どちらも、「愛」を口にすることはない。なぜなら、彼らにとって「愛」は自明のものとしてそこにあるからだ。
苛酷な自然の中で生き延びるその奇跡のような「純愛」の前に、求婚者たちは右往左往せざるを得ない。そして、堅牢(けんろう)なはずのその「純愛」もまた、彼らの右往左往の狭間(はざま)で傷つかざるを得なくなる。
トゥヤーを演じているユー・ナンも魅力的だが、それ以上に印象的なのは、夫バータルを演じている俳優である。肩にまったく力の入っていない飄々(ひょうひょう)たる演技によって、やさしいけれど無力な夫に対する私たちの共感を、少しずつ獲得していく。
どんな俳優なのか調べてみると、役名と同じバータルという名の、内モンゴルに住む普通の人なのだという。監督のワン・チュアンアンは、「あの子を探して」のチャン・イーモウと同じく、ユー・ナンを除くすべての役を実際に内モンゴルで生きる人に演じさせたらしいのだ。その結果、俳優であるユー・ナンまでもが、内モンゴルで生きる女としての力強さを得ることになった。
この作品がベルリン映画祭でグランプリを受賞したというのも、荒野に深く掘られた井戸のように確固として存在するトゥヤーには、どんな映画の登場人物も打ち勝つことができなかったからなのだろう。
掲載:2008年02月13日朝日新聞朝刊紙面
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