F1引退から15年たつ。日焼けした肌の色と精悍(せいかん)な顔つきは変わらない。開口一番、「昨日のレースは99%勝っていたのに最後に僕のミスで負けちゃって……」と悔しそうな表情を見せる。監督としてチームを率いる今も、その悔しさが生きるエネルギーだ。
(文・神山典士)
いや引退直後には農水省が開くセミナーに参加して、農業をやろうとしたこともあるんです。僕の実家は農家だったので、何げなく親父に言ったんです。農業でもやろうかなって。そしたら「アホかお前は」と、怒られたというか馬鹿にされました。そんな軽い気持ちでできるほど農業は甘くないぞって。確かにその通りで、一人前の農家になるにはやっぱり何年もかかるんです。それよりも自動車レースをやっていた方が楽しいので、結局元に戻ったわけです。
いえ、広がったというよりも、だいたい5年ごとに挫折というか失敗を繰り返しているという感じですね。高木虎之介を連れて約3年間F1に挑戦したこともありますが、ちょっとF1界が僕たちのチーム体制では手に負えないものになってしまっていて、残念ながら撤退しました。規模が大きくなりすぎたというのかな。自動車メーカーが僕の現役時代以上にダイレクトに力を注いでいるなという印象です。
そう言われるとカッコイイですが、初めて世界に出た時は「すげえ所に来ちゃったな」とあぜんとしましたよ。20代の頃、日本のレースではスタートに失敗しようが何をしようが走れば勝っちゃうような状態でしたから。当時のセナやプロストの走りを見たら世界は広いなとしみじみ思いました。
だいたい僕はF1デビューが34歳と遅かったんです。それが20代の若手と一緒に走ってみて、このカーブの出口でアクセルを踏めばいいんだと理屈ではわかっても、体が動かないんです。もう少し世界でも通用すると思っていったんですが、甘かったですね。
それはね、天才たちはマシンの細かいセッティングなんて注文しないんですよ。しなくても走れちゃうから。でも僕は乗りにくいのが嫌だからあれこれスタッフに細かい部分まで報告したんです。そうしないと天才たちに伍(ご)して走れませんからね。それで結果的にエンジンやマシンの性能がアップして、チームメートの天才たちは信じられないタイムで走ってくることになったんです。

1953年、愛知県生まれ。16歳からカートレースを始める。全日本F2シリーズで頭角を現し、国内では何度もシリーズチャンピオンに。87年、日本人初のF1フルエントリードライバーとしてデビューし、日本にF1ブームをもたらす。91年、引退。F1通算獲得ポイント16点。92年、ナカジマ・レーシングの総監督として活動を開始。鈴鹿カート・スクール、鈴鹿フォーミュラ・スクール校長。
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