この人ほど多彩にして華麗な仕事の振り幅を持っている人も少ない。元東京芸術大学教授にしてベストセラー作家。舞台では朗々と美声を披露し、厨房に入れば名コックとなる。ところがその前半生には、まさに「背水の陣」と呼べる悲壮な闘いの時があったことを知る人は少ない――。
(文・神山典士/写真・田中史彦)
その通りです。ことに目録の方は、それまで日本の短大講師だった男がイギリスに留学して、そこで何の成果もあげられなければ一生負け犬で終わるという背水の陣を敷いて書き上げたものです。
実はこの本は、それ以前にもふたりの学者が編集しようと取り組んだ記録があるのですが、1人は心筋梗塞で亡くなり、もう1人も編集中に交通事故で重傷を負って引退され、非常に縁起が悪いものと言われていました。
はい。イギリスにあるとはいえ、日本語の文献なのですから英語で書いても仕方がない。ところが向こうには日本語の活字はないですから、自分でワープロに打ち込んでそれを版下にして写真製版するという方法しかなかったのです。
そうです。その貧弱なワープロを駆使しながら、計75万字の本を6年かけて書き上げたのです。その間、私自身も何度も心臓発作で倒れています。過労でいつ死んでもおかしくないような状況でした。しかも、見返りといったらわずかな印税が出ただけのボランティアでしたし……。けれどあの絶望的な努力を6年間続けたからこそ、今の私があるということは間違いありません。
芸大に招いてくださったのは、当時教授だった詩人の大岡信さんでした。そろそろ芸大を辞めたいと思っていらした大岡さんが、銀座のバーであるマダムに相談したら、拙著「イギリスは〜」を勧められたそうなんです。
いえ、私は酒を一滴も飲まないので銀座には行かないのですから、不思議なご縁ですね。
その時から二足のわらじを履くことになりました。芸大の授業も手抜かりなく行いながら、作家としては雑誌連載が十数本、年に単行本が5冊といったペースでずっと書き続けています。
日常の中から常に無駄を省きたいと思っているからではないでしょうか。できるなら常にふたつのことをやっていたい。例えば車の運転をしながら趣味の声楽の練習をする。病気になればダイエットの本を出し、厨房に入れば料理の本を出す。時にはアダルトビデオを素材に平成の戯作文学を語りたいとも思うし、とにかく、何の領域でも学問的な立場でものを見ることはできる。私なら面白くそれを書けると信じているんです。

1949年、東京都生まれ。作家・書誌学者。慶應義塾大学卒業、同大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京芸術大学助教授等を歴任。専門は、日本書誌学・国文学。英国滞在中の見聞をつづった著書「イギリスはおいしい」で日本エッセイスト・クラブ賞(91年)、「ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録」で国際交流奨励賞(92年)、「林望のイギリス観察辞典」で講談社エッセイ賞(93年)を受賞。国文学・書誌学の研究論文、エッセー、小説の他、歌曲などの詩作、能評論、自動車評論など、著書多数。最新刊「リンボウ先生の〈超〉低脂肪お料理帖」(ソニー・マガジンズ)。「「どこへも行かない」旅」(光文社)
2006年10月7日(土)・8日(日)・9日(月・祝)の3日間、「せんくら2006 仙台クラシックフェスティバル」が宮城県仙台市で開催されます。どこかで聴いたことのあるクラシック音楽ばかりのコンサートが、3日間で実に101回行われます。しかも、1公演千円(税込み/前売券の場合)。林望さんのトーク&バリトンコンサート「リンボウ先生の音楽はおいしい」(9日、2公演)もあります。
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