本当に古葉監督にはご迷惑をおかけしたと思います。自分としてはあの時記録を切ってほしかったんです。日本記録まであと100試合前後にまで迫っていましたが、記録を考える余裕はありませんでした。でも古葉監督は誰に何を言われても使い続けてくれた。そういう方がいたからこそ後の世界記録もあったわけだし、あの年の赤ヘルの日本一もあったんだと思います。
ありがたいことです。自分が思っている以上に、米国のファンは僕のことを知っていてくれる。野球に対する思いの深さが違うという感じがします。
僕自身、自分がつくった世界記録が本当にすごいものなんだと知ったのは、96年にカル・リプケンが僕の記録を越えてくれた時でした。現役時代はひたすら毎日のゲームで頑張ることしか考えていなかったのですが、リプケンが出てきて、その足跡を冷静に見られるようになった。本当にすごいことをやったんだなと実感できたんです。
今回の米国のファンの声援はすごかった。もちろん野球の花はホームランですから、王貞治監督への声援が一番ですが、その次に僕のことを知っていてくれたのでしょうね。
そうなんです。今も広島に帰るといろいろな人から「なぜだ」と怒られます。それが一番つらいのも確かです。
でも、それにはいろいろな理由があって、その一つは、野球界の人間関係が煩わしかったというのもあります。コーチや監督として現場に戻るためには、人脈とかいろいろ複雑な要素が絡みます。そういうものにからめとられるのが嫌だった。僕はあるがままに生きたいと思ってしまったんですね。
現場が一番面白いというのは、誰よりも自分が一番わかっています。でも、自分は野球の楽しさを世間一般に伝えるセクションに行けばいいやと思ってしまったんです。それを逃げ道に使ったのかもわかりませんが。
前々から60歳を過ぎたら子供と一緒に野球をする時間を持ちたいと思っていました。全国を回って、そういう機会が持てればと思っています。とはいえ、あんまり社会性がないので、気楽な生き方が一番というのが本音なのですが。

65年、入団直後に買ったアメリカ車フォード・ギャラクシーです。真っ黒で全長5m40。後ろに翼がついた60年代のフルサイズの車でした。当時、中古で80万円程度だったでしょうか。ところがこれが大問題。監督がマツダの小型車に乗っている時代でしたから、18歳の若造が何をやっていると大目玉を食いました。それで4カ月後には手放すはめになりました。
誰よりも故・根本陸夫さんにはお世話になりました。入団3年目に監督としていらっしゃったのですが、ひと目見た時から、この人には逆らえないと感じました。人生の箍(たが)ははずしちゃいけないと教えられました。根本さんが広島の土台をつくって、後に古葉監督、阿南監督の時代に花が開いたんです。
鎌倉のお坊さんが書いた「ただの人であれ」というタイトルの本が印象に残っています。ちょうど79年の大スランプの時に手にしたんです。追い詰められた時に何度も何度も読みました。あの本を読むことで、スランプを乗り越えるエネルギーをいただいたと思っています。現役時代、周囲からは鉄人と呼ばれていても、やはり自分の中の不安と常に闘っていましたから。
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