20歳で日本チャンピオンを獲得して以来、カシアス内藤さんはさまざまな物語を紡(つむ)いできた。東洋チャンピオン獲得、世界チャンピオンへの挑戦、1度目の引退、復活、そして挫折……。多くの人にとって、その名は「一瞬の夏」という沢木耕太郎氏の著書とともに刻まれているはずだ。そして今、57歳にしてなお、カシアス内藤さんは新しい物語を紡ぎ続けている。
(文・神山典士/写真・田中史彦)
そんな人いなかったよね。でも俺(おれ)は引退してからもずっとジムを開く夢をもっていたから。物件の下見もしていたし、いろいろなジムを見て回ったし、たくさんの会長にも会ったし、アマチュアの選手の指導も続けていた。だから準備だけはずっとしていたんです。5年前には1度、物件決めて、実際にリングのロープを張るところまでいったんだけど、欠陥住宅だということがわかってやめたこともあったしね。
病気だよ。3年前に末期と宣告された咽頭(いんとう)ガンに本当に背中を押してもらったのかな。それでトトトトッと前に歩き出したんだ。それまではやろうという気持ちはあったけれど、一歩前に出なかった。いつかいつか、とは思っていたけれど、病気を宣告された時に、いつかじゃ駄目だ今なんだと思ったんだよね。あの時はたぶんあと3カ月くらいしか生きられないだろうと思ったからね。
もちろんその瞬間は「どうしたもんか」とは思ったよ。でも声帯と舌を全部取り、食事は点滴と言われた時に、まず思ったのは声が出なくなったらボクシングが教えられないということだった。喉(のど)に穴を開けてそこに機械を押しつけてしゃべったりするんじゃ、反応が鈍くなる。まして筆談なんかしていたらボクシングはもう教えられないでしょ。それに食事が点滴になったら、自分よりも家族のダメージが大きいと思ってね。それで医者に無理を言って、摘出手術をしないで抗ガン剤と放射線治療をお願いしたんです。
それはエディさん(エディ・タウンゼント、カシアス内藤をはじめ幾多の世界チャンピオンを育てた名トレーナー、1988年没)との約束だったからね。2度目の引退をする時に、将来絶対に自分のジムをつくるとエディさんに約束したんです。最初の約束だった世界チャンピオンになるという夢は果たせなかったから、もう一つのジムの夢だけは絶対に手放したくなかった。それがあったから、トラック運転手の仕事をやりながらもよく後楽園ホールの一番後ろでこっそり試合見たり、公園や体育館で子供にボクシング教えたり、防衛大学にボランティアで行って教えたりしたんですよ。ガソリン代も弁当代も全部自費でね。もちろん、それはボクシングが好きだからやっていたんだけど、どんな時でも心が折れなかったのはエディさんとの約束があったからだよね。
そう、俺が金を出すからとか会社の倉庫を貸すからと言ってくれた人はたくさんいました。でもエディさんは、一人に頼ってジムを出しちゃ駄目だと言っていたんです。その人がやっぱりジムはやめると言い出したら選手が可哀相だからって。たくさんの人のお世話になるのはいいけれど、1人のパトロンに頼るのは駄目だって。だから今回、とてもたくさんの人に応援してもらいました。1人1万円ずつ出してもらって、お礼は、将来世界チャンピオンを出したらそのチケットを贈るという約束でね。

1949年横浜市生まれ。高校時代にボクシングと出合い、すぐにインターハイ・チャンピオンとなる。卒業時、家2軒分の契約金を提示するジムをけって、エディ・タウンゼントの教えを請えるジムを選ぶ。20歳で日本ミドル級チャンピオン、21歳で東洋ミドル級チャンピオン獲得。その後4年間のブランクの後リングに復帰。世界をめざして東洋・太平洋ミドル級王座に挑戦するが敗退。79年現役引退。大工、トラック運転手、水道屋、銀座のフィットネスジムのトレーナーなどを経て2005年2月1日、タウンゼントの命日に念願のジムを開設。名前も「E&Jカシアス・ボクシングジム」としてその名を入れている。04年1月咽頭ガンの診断を受け、現在も毎日、規定量の半分の抗ガン剤を飲み続けている。
現在、練習生の最高齢は68歳、最年少は8歳。目的も様々な人が通っている。年齢や性別による制限はなし。毎日、何時間でも都合のいい時にトレーニングができる。見学も自由。「ダイエットの人、体力増強の人、プロを目指す人、いろんな人が通っているよ。体力目的の人は、例えば階段上るのが楽になったら、目標達成だよね。その時点でその人はチャンピオン。そうしたらまた次の目標を定めるの」
詳しくはE&Jカシアス・ボクシングジム公式ホームページへ。
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