ボブ・ディランやローリング・ストーンズなど、歌のうまさより魂の奥底を揺さぶる音楽に妙に惹かれる。「こういう音楽を知らなければ、僕の歌はもっときれいだったかも」と笑う。
それは謙遜であり、同時に事実だ。男声の最も高い音域を、伸びやかに叙情的に歌い上げるリリコという声質を持つ。艶やかで力強い美声と、繊細でありながらも観客の心にぐいぐい迫る演技力。その原点をうかがってみた。
(取材・文/井上理江 写真/田中史彦)
遅いんです。高校のブラスバンド部でトロンボーンを吹いていた。それで音楽大学を目指したのですが、大学受験の講習会で先生に「歌のほうが可能性がある」と転向を勧められ、思いがけず声楽の道へ進むことになりました。
なかったです。小学2年の学芸会で「森のクマさん」を歌ったのがソリストデビューではありましたが(笑い)。ただ、声変わりが早かったので、中学のとき僕はずいぶん低い声が出るなあとは思っていました。
それよりも「音楽を学びたい、東京へ出たい」という気持ちのほうが強かった。実家が秋田で両親ともに教師だったせいか、「男が音楽をやるなんて」と反対され、「芸大(東京芸術大学)に入ったら認めてやる。でなければ地元の国立大学へ入って教師を目指せ」と言われて悔しくて。何としてでも芸大に入りたかった。声楽に可能性があるなら、思いきってそちらへ賭けてみようかと。
声楽の知識も経験もない。オペラの「オ」の字も知らないまま入学してしまったので、高度な音楽教育を小さいころから受けてきた同級生とは全然レベルが違うわけです。話も合わず、劣等感のかたまりでした。それで、授業後は大学の図書館に毎日通い、クラシックのビデオを見たりレコードを聴いたり。名前もわからないから、ア行から順番になぞっていった。でも、今まで聴いたことのない音楽の世界がそこにはあって、それが面白くてたまらなく、無我夢中で聴きまくっていました。
在学中から藤原歌劇団のコーラス部に所属し、舞台経験は積んでいたのですが、まだまだオペラ歌手になれるだけの実力がない。とはいえ秋田にも帰れない。やむなく選んだ「東京で教師」という道でしたが、教師は2年で辞めました。中途半端な気持ちでは務まる仕事ではなかった。それに生徒たちに声を張り上げているとのどが疲れて、歌の練習ができない。それが大きいかな。教師をやりながらも、心のどこかでずっと「オペラでソリストになるのだ」という思いは捨てていなかったから。
すぐに正式団員として入れるほど甘い世界ではなく、最初はまず研修生からスタート。生活費はアルバイトで。結婚式場のビデオカメラマンなど、できる限りのどを使わない肉体労働が中心でした。研修生を終えた後、本場で勉強したくて自費でイタリアのミラノへ何度か行きました。

テノール歌手。藤原歌劇団団員。秋田県生まれ。東京芸術大学卒。日本オペラ振興会オペラ歌手育成部第11期修了。1992年ロッシーニ国際オペラ・コンコルソ入選。平成5年度文化庁芸術家国内研修員。オペラ歌手育成部在学中の90年、秋田県制作の郷土オペラ「ねぶり流し物語」でデビュー。藤原歌劇団団員としてデビューを飾ったのは95年「椿姫」のガストン役だった。96年には「東洋のイタリア女」(日本初演)のシーシン役で好評を博す。イタリアへ留学し、ミラノでボッケリーニ「スタバト・マーテル」などのコンサートに出演。帰国後、藤原歌劇団「愛の妙薬」、新国立劇場開場記念公演「建・TAKERU」(97年)、「椿姫」(98年)、「こうもり」「マノン・レスコー」(99年)、「セビリアの理髪師」「ドン・キショット」「幸せな間違い」(2000年)など、数々の舞台に出演。また、02年のオペラ鑑賞教室「トスカ」のカヴァラドッシ役で絶賛を博し、サッカー親善試合やオリンピック結団式で国歌を歌うなどして注目を集めている。
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