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ひとインタビュー新妻と映画とギャンブルの日々 断れない性分で人生を切り開く 第四十九回 蛭子能収さん

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情けないサラリーマンでした

「人に頼まれると断れなくて」と言う。しかし、その性格が功を奏して、今や漫画家だけでなくタレント、俳優としても大活躍。映画監督という長年の夢も見事かなえた蛭子能収さん。

さらに今年1月には19歳年下の女性と再婚。この10月には60歳になるというが、「オレ自身、全然そんな意識がなくて。貫禄ないし。まあ、映画がシニア料金で観られるのが唯一うれしいかな」。順風満帆の蛭子さんに、その独特の幸せ哲学を聞いてみた。
(取材・文/井上理江 写真/田中史彦)

――漫画家としてデビューする前、15年ほど会社員生活を経験しています

地元長崎の看板屋に勤め、上京してからもしばらく別の看板屋に勤め、その後、ちり紙交換や営業マンなどをしていました。最初の看板屋はつらかったなあ。グラフィックデザインがやりたくて入ったのですが、実際には肉体労働。あまりにキツくて辞めたかったけれど、「辞めたい」と言い出せず、結局4年も勤めてしまいました。

――上京したのは、グラフィックデザイナーを目指して?

いや、その頃の夢は映画監督。もともと映画が大好きで。とはいえ一番大事なのは「食うこと」なので、いろいろと仕事をしながら映画監督を目指して青山にあるシナリオ学校へ通ったりしていました。

学校へ通えば、仲間ができて自主上映なんかして、そのうち映画会社に才能を見いだされるだろうともくろんでいたんです。ところがまず友達らしき人が一人もできなかった(笑い)。みんな都会的でおしゃれに見えて気後れし、声をかけられなかったんです。一応、卒業はしたのですが。

――そこから、夢は漫画家へ?

そうです。作品のストーリーだけはどんどん浮かんでくるので、自分一人で脚本を作り上げることができる漫画に切り替えたんです。で、ちょうどちり紙交換のバイトをしているときに漫画雑誌「ガロ」に入選、それがデビューです。

――でも、すぐ漫画家として独立しなかったのはなぜ?

原稿料が出なかったから。当時は、ただ自分の作品が雑誌に掲載され読者から感想をもらうのがうれしかったので、細々と投稿は続けていました。仕事は途中でダスキンの営業マンに転職しました。

――仕事はお金を稼ぐための手段と割り切り、自分を殺して働いていたとのことですが

目立たず、自己主張せず、ただただ上司の言いなりに動く会社員でしたね。それがサラリーマンの使命だと思っていたし、オレ自身、本当に反対意見が言えない性格だったから。残業も頼まれると嫌と言えず、「わかりました!」と表向きには良い返事をしていました。おかげでどこの会社に入っても社長には好かれた。あの頃はそのうっぷんを漫画やギャンブルで晴らしていたんだと思います。

ギャラがうれしいタレント業

――会社を辞めて漫画一本でやっていこうと決意したのが33歳

連載の話がきっかけ。だらだら二足のわらじもどうかなと思っていたので、これでダメなら長崎に帰ろうと自分なりに覚悟も決めました。そのときラッキーだったのは、ある編集者が出版パーティーに連れていってくれ、そこで他の漫画家や出版社の方を紹介してくれたこと。その人脈で漫画家だけで食べていけるようになりました。

――タレント、俳優としてバラエティー番組やドラマ、映画に出演し始めたのは?

これも頼まれたから、がきっかけ。とにかくオレは断るのが苦手なのでホイホイ何でもついやってしまうんです。ただ、当時はインテリな漫画家に思われている気がしていて、テレビに出たらそうじゃないのがバレてしまうんじゃないかと心配しました。案の定バレてしまい見事に漫画が売れなくなりましたね。

――タレントや俳優業は面白い?

いや、頼まれるからやっているだけで、それほど積極的な気持ちで取り組んでいるわけではないです。漫画家が本業だと思っていますし。実際には漫画の仕事は減っていますが(笑い)。一番の楽しみは後でギャラが入ってくること。やって良かったなあと思う瞬間です。

(写真)蛭子能収さんプロフィール

1947年、熊本・天草生まれ、長崎育ち。高校卒業後、地元の看板店に就職。4年半勤めて上京。25歳のときに「ガロ」(青林堂)で漫画家デビュー。その後、ダスキンの営業マンなどの職を経て、33歳のときにプロの漫画家として独立。シュールで不条理な世界をヘタウマと言われる独特の作風で描き、注目を浴びる。代表作に「地獄に堕ちた教師ども」「馬鹿バンザイ」「私はバカになりたい」など。87年、劇団東京乾電池の公演に参加したのを機にテレビに登場するようになる。以後、俳優、タレントとしても活躍。数多くのバラエティー番組、テレビドラマ、映画に出演。2003年、短編映画「諫山節考」で映画監督デビュー。07年には昭和を代表する歌謡曲をモチーフにしたオムニバス映画「歌謡曲だよ、人生は」に、11人の監督の1人として劇場版映画を初監督。競艇などギャンブル好きとしても知られている。01年、29年連れ添った前妻(享年51歳)を病気で亡くし、今年1月、雑誌のお見合い企画で知り合った女性と結婚。

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