現在女優として活躍する山村美智さんが、女子アナウンサー時代、元祖ひょうきんアナとして注目をあびた頃に何が起きていたのか。そしてニューヨークでは駐在員の妻に飽き足らず、日本人で初めてオフブロードウェーの劇場で英語劇の自作自演を成功させた体験など、輝かしい経歴の裏にある苦労と挑戦を語ってくれた。
(取材・文/田中亜紀子 写真/森浩司)
入社後に言われたのは、ニュースと天気予報さえやればいいということ。一番華やかだった先輩は、故・逸見政孝さんと夕方のニュースを担当していらした田丸美寿々さんです。当時は今と違い「母と子のフジテレビ」がスローガンの地味なテレビ局でした。仕事も最初は新聞の切り抜きや、番組の前後に流れるスポンサーを読み上げるアナウンスの収録。そしてお茶くみなど雑用も多かったです。
もともと私は演劇少女で女優になりたいという夢がありましたが、うちは母一人子一人で、母には私が地道に生きてほしいという強い思いがあったようです。ですから実は母校の高校教師に就職が内定していました。でもその後、劇団「東京キッドブラザース」の東由多加さんに偶然遭遇して「君、女優にならない?」と声をかけていただき、つい「はい!」と答えてしまい(笑)。劇団経験をした後、1年遅れでフジテレビに就職しました。アナウンサーへの応募は、女優と一般的な仕事の間をとるという気持ちでした。
まずフジテレビの大改革が背景にあります。1981年に、当時の副社長、故・鹿内春雄さんが、「楽しくなければテレビじゃない」という後のキャンペーンにつながるとがった番組作りを目指して組織変更をしました。その一環でアナウンス部が報道から離れて編成の所属になり、バラエティー番組へのキャスティングがしやすくなりました。
そこでまだ報道色の付いていない新人の私たちに白羽の矢が立ったんです。同期3人のうち私になったのは謎です。言われる前日、私が担当したお葬式のリポートに、部長が「みっちゃんは落ち着いたリポートが抜群にいい。皇室ものとか今後いいかもしれないね」と言ってくれていたのに、翌日にひょうきんアナの依頼ですからね(笑)。
実は私、その頃ほとんど仕事がなかったんです。同期の2人はワイドショーのロケやリポートで多忙で。私も最初、共同記者会見に借り出されましたが、人の話に割り込んだり、話が終わる前にマイクを向けることができず、すぐ降ろされました。だからこの頃は、一人残った私が庶務的な役割から先輩へのお茶出し、そして山のようなお茶わん洗いを全部行い、「主婦湿疹」になって病院に通っていたくらい暗い時期でした(笑)。ですからその話が来た時、「これでお茶わん洗いから解放される!」と飛びついたんです。でも結局、解放されませんでした。ほかの2人はロケで外出、私はスタジオ収録だったので、真夜中に収録の合間に、爆発したような派手な髪形でデスクに戻ると、湯飲みが山のようにたまっていて。結局、くら?い給湯室で黙々と洗い物をしていました(笑)。

三重県伊勢市生まれ。津田塾大学時代から劇団「東京キッドブラザース」に所属。1980年フジテレビにアナウンサーとして入社。「オレたちひょうきん族」の初代ひょうきんアナとして注目される。85年に退社後、フリーになり女優に転身。2001年に山村美智子から山村美智に改名。02年に自ら脚本・演出を手がけ主演した二人芝居「私とわたしとあなたと私」を上演。07年にはニューヨークでその英語版「I and Me & You and I」をオフブロードウェーの劇場で上演。出演作は映画に「バトル・ロワイアル」「人間合格」「夜を賭けて」など。ドラマに「セカンドバージン」「龍馬伝」「功名が辻」「御宿かわせみ」など。
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