大手広告会社の電通に入社してから6年たった81年のことだった。父親が2度目の結核に倒れた。退院してきたその姿は一気に年をとったように見えた。
入社2年目にビームスを開いたが、実務は仲間にまかせ、自分は会社勤めを続けていた。いよいよビームスに専念しなくてはならない時期が来たのかもしれない。モノそのものを扱う仕事に真剣に取り組みたい気持ちがわき始めていた頃でもあった。
あの大学1年の夏、横須賀の米軍キャンプで見たアメリカ製のモノは、米国文化そのものだった。モノを通して文化、ライフスタイルを伝えたい。そう思って始めた小さな店は5年たって4店舗にまで増えてはいたが、それ以上は予測もつかなかったし、自分の給料も出していなかったぐらいだ。
半面、イベントなどを仕掛ける電通でのプランナーの仕事はとても性に合っている、とも思っていた。それだけに、辞めるまでに何か形に残る評価を得たいとの思いが強かった。81年暮れ、その年に手がけたイベントが、社内の最優秀賞を受けた。まもなく、上司に辞める意志を伝えた。
しかし、簡単には退職できなかった。継続している仕事もあったし、会社側のタイミングもあった。ある日、担当していたイベントにかかわっているプロダクションのスタッフ数人が、独立して自分たちの会社を作る話を始めた。「僕らが独立したあともつき合ってもらえますか」。初めて、電通という大きな看板がはずれることを意識した瞬間かもしれない。「僕の方こそ辞めるつもりだが、これからも協力してくれないか」
会社側に辞意を伝えてからほぼ1年後の83年4月、退社した。机を整理したとき、3千枚近い名刺が出てきた。
この中にただの「設楽洋」につきあってくれる人は果たして何人いるだろうか。その人たちを心から大事にしようとも思った。
それから3年後の86年、ビームス創業10周年のイベントが開かれた。仕切ったのはあの時、独立の話をしてくれた人々だ。
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