短大を卒業して、福岡県久留米市の繊維会社に就職した。企画部に配属されたが、数カ月で仕事に飽き足らなくなった。社長室に飛び込み、「企画を成功させたら留学させてほしい」と直訴した。
商社出身の社長は、「やってみろ」と背中を押してくれた。自らデザインしたバス・トイレ用品を風呂敷に包み、東京、大阪の百貨店や商店を回って取引先を開拓した。
5年でその商売を軌道に乗せた。そして、有給休暇扱いでウィーンに留学した。昼は国立工芸大でゴブラン織りやデッサンを学び、夜は約10人の職人を抱える工房で見習いとして働いた。
徹底した階級社会だった。
人種の壁も歴然とあった。
市電に乗り合わせた老婆に杖(つえ)でたたかれ、「ゲルプ(黄色)」と吐き捨てられた。大学では、一番古い織り機があてがわれた。工房に入門した3人の見習いのうち、有色人種は自分だけ。ほかの2人に手取り足取り教えた職人たちは、話しかけてもこなかった。女経営者も最後まで口をきこうとしなかった。それでも半年間、誰よりも早く工房に入り、最後まで働いた。
大学に、日本語ができるオーストリア人の女性教授がいた。韓国人の夫と別れ、独りで2人の子どもを育てていた。言葉の悩み、差別される悔しさ、何でも相談した。ある日、彼女が静かに言った。
「確かにこの社会には乗り越えがたい壁がある。でも芸術家だけは、軽々と壁を越える。お金では買えないオリジナリティーを持っているから。人は創造性に対して最上の尊敬を払うのよ」
他人のまねではないオリジナリティーこそが、性別や人種といった壁を越える鍵だ、と知った。
2年後に帰国すると、会社は倒産しそうだった。ならば、自分で会社をつくろう。部下の女性デザイナーを誘って翌年、久留米市の老朽化したビルの1室で立ち上げた。ウィーンで学んだ「オリジナリティーを貫く」ための第一歩だった。
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