世界最大の自動車メーカーで経営者への道を目指すか、一介のデザイナーとして納得できる作品に取り組むか。決断の時は30代半ばで訪れた。
当時、ゼネラル・モーターズ(GM)で、先行開発の研究所の責任者で部下三十数人を率いる立場だった。新たなスタジオを作ったが、ヒット作という結果が出ず、管理職として数人を解雇せざるを得なかった。こうやって経営に参加してゆくのが自分の目指した道だろうか?
一つのデザインにチームでかかる大企業の方式にも違和感を感じるようになっていた。「これが自分の仕事の成果」という実感が持てない。山形の両親にも話してすんなり理解してもらえるような仕事にしたい。
少年時代からのあこがれのデザイン会社・ピニンファリーナに自己紹介の手紙を書き、曲折を経て95年に入社。36歳だった。名門だが会社の規模は小さく、ヒラのデザイナーとなって収入はGM時代の3分の1以下に。イタリア語は初歩からの勉強だった。
しかし、そこで手がけた数々の名車のデザインは、断念したキャリアを補ってあまりある成果をもたらした。特に98年から社内外のコンペを勝ち抜き、生産台数わずか349台という究極の高級スポーツカー「エンツォ・フェラーリ」をデザイン。評価は世界的なものになった。
フェラーリ創業者の名を冠した車を日本人がデザインした。その意義の大きさは計りがたい。ヨーロッパ市場ではアジア人に対する偏見が強かった。ピニンファリーナでも、自分が担当したデザインにサインしないように言われたことがある。顧客への印象を気にしたのだ。
それでも落ち着いて仕事が出来たのは、実績を重ねれば「日本人」としてでなく「オクヤマのデザイン」として理解されるという確信があったからだ。「この仕事はオクヤマに」。顧客からそう指名されるのに、さほど時間はかからなかった。
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