
「これをやっただけで、ホンダに入った目的は達成した」
そう思える仕事がある。ホンダがF1黄金期の90年、威信をかけて発売したスポーツカー「NSX」のボディー開発だ。
ホンダにしか考えつかないようなスポーツカーとは――。白熱する開発陣の議論の中で、伊東は言い放った。「ボディーすべてをアルミにするしかない。おれがみんなやりますよ」
アルミの重さは鉄の3分の1。加速力が重要なスポーツカーにとって魅力的だが、何しろ前例がない。どうせ実現しないから作業が無駄になると、ひそかに「伊東の仕事にはかかわるな」と命令する上司さえいた。
すべてが未知との闘いだった。新幹線の開発者にアルミ加工のこつを聞き、アルミメーカーに材料の供給をかけあった。ようやく試作車ができると、役員からクギを刺された。「絶対にさびないんだろうな」と。
アルミのさびは、主に別の金属と触れる場所で起きる。ボディーと接触する部品をすべて洗い出して、1個ずつ対策を書き出した。壁中に張り出された紙を前に、役員はひとことだけ「わかった」と言った。世界初のオールアルミボディーの車が誕生した。
父は家具職人。物心がついたときから、ものづくりが好きだった。記憶にある最初の遊びは木工細工。見よう見まねでのこぎりなどを操り、「戦艦」を作った。大学時代は中古車をとっかえひっかえ乗り換えた。アルバイト先のガソリンスタンドでは、仕事の合間に愛車のオープンカーのほろを作った。
入社後の四半世紀は、一貫して新車開発畑。社長レースの登竜門とされる本田技術研究所の社長を経て05年4月、ハイブリッド車(HV)の生産拠点、鈴鹿製作所の所長になった。
「意識を切り替えよう。いま求められているのは、とにかくスピードだ」。社員には口を酸っぱくこう呼びかけてきた。
所長に就任した直後。ふらっと電気モーターの製造現場に立ち寄った。エンジン工場の片隅で、部品の山に埋もれながら作業を進める社員。4年後に控える新型HV「インサイト」の量産に不安が募った。
新ラインの建設案を急いで作り、社内の戦略会議で提案した。「いま、ここで決めて下さい」。モーターの生産能力は、年7万台から25万台に引き上げられ、インサイトは発売2カ月後の今年4月、HVとして初めて軽自動車を除く国内新車ランキングで首位に立った。
6月、社長に就任。いままで会えなかったホンダの「生き字引」たちへのあいさつ回りで、創業者、本田宗一郎のエピソードを聞いた。
ホンダの製品が路上で止まっていると、本田は心配になって駆け寄り、時にはその場で直してしまった……。改めて「いいおやじだったんだ」と感じた。
過去100年間、世界の自動車産業に君臨してきた米ビッグ3の二強が倒産。世界同時不況を機に、業界は生き残りをかけた大競争に入った。
だが、いくらきれいで、性能がいい車でも、それだけでは評価されない。人を感動させるのは、やはり「製品に込められたメーカーの思い」だと思う。
座右の銘も、好きな言葉もない。「素直で自分が自分らしくやるだけ。飾らない、うそをつかないことは心がけている」

静岡県清水市(現・静岡市)の家具職人の長男として生まれる。5人兄弟の上から4番目。地元の小中高を経て、京大工学部に進む。同大学院では航空工学を学んだ。78年、ホンダに入社。以後約25年間、主に四輪車の車体の設計を担当してきた。米国の開発拠点の副社長や鈴鹿製作所長などを経て、09年6月から社長に。家族は妻と娘3人。趣味はマイカーでの温泉巡り。近場はバイクで移動する。



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