
5月22日。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地での定期演奏会最終日。オーケストラが引き揚げても、喝采はやまなかった。
ひとり、ステージに戻ってきた燕尾服(えんびふく)の佐渡裕さんは、男泣きに泣いていた。
オーケストラは、187センチの長身からほとばしる「言葉」すべてに反応し、ひとつの生き物であるかのようにうねりながら、立体的で多彩な響きを奏でてくれた。「幸福感で、途中から涙が止まらなくて。自分が指揮しているんじゃないような、不思議な感覚でした」
小学校の卒業文集に「ベルリン・フィルの正指揮者になる」と書いた夢の第一歩は、地元紙が「ベルリン・フィルは、どのデビュー指揮者に対してもこれほど献身的に演奏するわけではない」と述べる「大勝利」となった。
「オレはジャガイモを見つけた。まだ泥がいっぱいついていて、すごく丁寧に泥を落とさなければいけない。でも泥を落としたときには、みんなの大事な食べ物になる」
1987年、タングルウッド音楽祭で佐渡さんを見いだした指揮者、故レナード・バーンスタインは言った。
音楽エリートとは違う道を歩いてきた「雑草」育ちだ。地元・京都の公立高音楽科から進んだ芸術大での専攻はフルート。卒業後、本格的に指揮者を目指すが、ほぼ独学だった。関西二期会の副指揮者を務めながら、ママさんコーラスや女子高の吹奏楽部などを指導する日々が続いた。
25歳。思い切って応募したのが、若手音楽家の登竜門として知られるタングルウッド音楽祭だった。「雑草」の履歴書はゴミ箱に。だが同封したビデオが小澤征爾さん、バーンスタインの目にとまり、道がひらけた。
フランスを中心に欧州で着実にキャリアを積んできたが、国内ではなお「雑草」のイメージが強い。アマチュアが集う「1万人の第九」の指揮や、テレビ番組「題名のない音楽会」の司会などを引き受け、普通の人のそばに居続けているからかもしれない。
不眠症になるほど自らを追い込み、ひたむきに音楽を追求せずにいられない天与の才と、「音楽ってええで。いっぺん演奏会来いひんか」と一人でも多くの人に伝えたい衝動と。02年から芸術監督を務める兵庫県立芸術文化センター(西宮市)は、芸術性と大衆性を兼ね備えた、佐渡さんそのものともいえる存在だ。
一度は音楽が失われた阪神大震災からの復興の象徴としてつくるべく、商店街を歩き、小学校を訪ねて、一人ひとりと話すことから始めた。
経営面も固めなければと、ザ・シンフォニーホールの名支配人だった林伸光さんを口説いてゼネラルマネジャーに迎え、クラシック音楽の初心者から上級者まで広く楽しめる多彩な自主事業を展開。劇場付オーケストラの定期演奏会や、毎夏上演する自主制作のオペラは、ほぼ完売。文化不況の中で、奇跡のような快進撃を続けている。
「今までのすべての経験がなかったら、ベルリン・フィルの成功はあり得なかった」

1961年、京都・太秦の商店街に生まれる。父は教師、母は声楽の先生。
84年、京都市立芸術大卒業。
87年、米タングルウッド音楽祭参加。
89年、ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。故レナード・バーンスタインのウィーンでの助手に。
93年、仏のコンセール・ラムルー管弦楽団の首席指揮者に。その後、パリ管弦楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン国立歌劇場管弦楽団など名門に客演。
2002年、兵庫県立芸術文化センターの芸術監督に就任。「林さんとやったら、世界一のお客さんが来るホールがつくれる」と言われゼネラルマネジャーに就いた林伸光さんは「佐渡さんの言葉に負けました」。人の心をつかむのがうまく、意外に義理堅いと評する。
他ジャンルで活躍する人々との交友関係も広い。コーチ論で対論した神戸製鋼ラグビー部の平尾誠二総監督は「おおらか、かつ繊細。カリスマなき時代の指導者やと思いますね」。



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