
島への深い愛情が、オンエアされる番組のすみずみまで染みわたっている。
鹿児島県奄美大島で初のラジオ局「ディ!ウェイヴ」を立ち上げた。島唄や島口(しまぐち)(方言)を発信し、世界中の島人(シマッチュ)たちをつないでいる。
開局5周年の5月、寂れた市場の一角にサテライトスタジオを設けた。昭和の駄菓子屋をイメージし、自ら金づちを振るった。生放送中も窓は開けっ放しで、鮮魚店のおばちゃんが魚をぶつ切りにする音も電波に乗る。駄菓子目当てに集まった子どもが、島口あふれる放送を眺めている。
中でも、90歳のおばあの島口を英語の表現と比較する「英会話のOVA(オバア)」は名物コーナー。結婚式の余興で活躍する芸達者たちも、みな無報酬で番組を持つ。琉球と薩摩に侵攻され、戦後は米軍政下にも置かれた奄美で、裏声を多用し、島人が苦楽とともに歌い継いできた島唄を、東京、大阪からの直行便が着く時間に流して迎える。
険しい山と、複雑に入り組んだ海岸線が集落を隔てる奄美大島は、本土のラジオ電波すら届かない所が多い。くまなく放送を届けようと、昨春、ネット配信も始めた。意外にも関西や関東、海外の奄美出身者から「懐かしい」とメールが来た。「島を出た島人にも放送を届けたいと考えてきた。うれしい反応です」
やんちゃな笑顔の理事長は、島のアーティストを集めたライブを主催してきた、島おこしの仕掛け人でもある。
18歳の春、就職で島を離れた。高校でバンドを組んでいたロック少年にとって憧れの都会生活だったが、なまりが恥ずかしくて口数が減った。3人1室の寮で「奄美大島出身」と言えば伊豆大島と勘違いされ、そのうち「鹿児島」「九州」と言って故郷を隠した。4年半後、島に戻り、大工の父の見習いを始めた。
その傍ら、ロックなどのイベントを企画。1998年に島で初めてライブハウスを開いた。ある日、東京から来たロックアーティストが、哀愁を帯び、沖縄とは違う響きの島唄を絶賛した。酔った大人が歌う、迷惑な存在でしかなかった島唄――。足元の宝に気づかず、「悔しさと恥ずかしさがこみ上げてきた」。
島の魅力に気付いてから、2001年に島唄イベントを開催。その後、東京・渋谷でも成功をおさめる。
島唄のイベントには、島出身の元(はじめ)ちとせさんも出演した。元さんは「デビュー前、「東京で頑張れ」と唯一認めてくれたのが憲吾さん。いつもぶれないお兄ちゃんのような存在」。ラジオでは有名無名の約50人が番組を持つが、元さんもその一人だ。
島の人口は6万5千人。若者の流出は止まらない。最近、島を誇れるようになるまでの自身の半生を、学校で語る機会が増えた。いつか島を出る子どもたちの「帰巣本能」を駆りたてたいと思う。
「一度島の外に出ることは大事。でも、夢や可能性は島の外だけにあるんじゃないよ。ここがワンキャ(自分たち)の中心なんだから」

1971年、奄美大島・名瀬生まれ。大島工高ではロカビリーバンドのリーダー。手書きポスターを配り、チケットを売る。イベントを仕掛ける感覚はこのころ芽生えた。
90年、相模原のIC工場に就職。都内の酒販会社では銀座の飲食店を回りながらバンド活動。94年に帰島。
98年10月、ライブハウス「ASiVi」開店。資金を心配した周囲の大反対を受けたが、「島に必要」と銀行を口説いて300万円を調達した。
2002年、東京・渋谷のクラブクアトロで奄美の歌手を集めた「夜ネヤ島ンチュリスペクチュ」(今夜は島人に敬意を)を開催。定員以上の900人が来場。03年、奄美の復帰50年記念野外ライブでは2日で6千人を動員。
04年、NPO法人「ディ!」設立。ASiVi2階で07年放送開始。「ディ!」12人、ASiVi経営の「アーマイナープロジェクト」の7人を率いる。国内初のNPO運営ラジオ局「京都三条ラジオカフェ」を立ち上げた大山一行(いっこう)さんは「危なっかしい部分もあるが、独自の知恵で融通無碍(ゆうずうむげ)に動ける男」と言う。



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