無上菩提は、自の為に非ず、他の為に非ず、名の為に非ず、利の為に非ず。然而、一向に無上菩提を専求して精進不退なる、是れを発菩提心と名づく。
(永平広録)
今朝の輪講の席で、思わず当番の発表者を棒でたたいてしまいました。

道元禅師のテキストを読み、延々と仏性について「ああでもない、こうでもない」と、小難しい説明をしたからです。
「じゃ、お前の仏性とは何だ」
と聞いたところ
「オリジナル・セルフです」
そこで私から一発が飛んでしまいました。昔の中国禅なら、そのとたんに弟子が悟りを開くはずですが、残念ながらそれはおこりませんでした。
安泰寺の冬安居の輪講は真剣勝負です。経典の言葉を置き換えただけではダメです。自分自身の態度に表されなくてはいけません。
輪講の前後で唱える「開経偈」と「四弘誓願」で表現されている道心も同じです。唱えただけではダメです。あるいは私が前回のように「今の命を生で生きるから」といったって、実践が伴っていなければ何の意味も持ちません。
この実践を「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう)」という言葉で表すこともあります。菩提、つまり道を上に求め、それを自分を含む一切のもに行きわたらせるというふうに私が解釈しています。
仏教のごく初歩的な解釈では
凡夫 → 菩薩 → 仏
という修行過程ですが、それは
「私(凡夫)が、がんばれば(菩薩)、いずれはリッパな人(仏)になる」
というような図式です。
上求菩提・下化衆生の実践はそれよりむしろ
凡夫 ← 菩薩 → 仏
というような過程ではないでしょうか。今、ここで現に実践している自分を上の「仏」にも下の「凡夫」にも開いておくということだと思います。上の「仏」も下の「凡夫」もいうまでもなく、自分自身のことほかなりません。精神分析の父フロイトが提唱した自我・エス・超自我という心的構造論とどこか似ていなくなくもないと思います。仏という理想(フロイトの超自我)と内なる煩悩・妄想の葛藤を調整しながら、現実の中で社会の責任ある一員として生活しようとする試みこそ、菩薩修行ではないでしょうか。

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