![]()

「お前、確か野球部だったよな、それも、あの名門の」
ぼくとMは居酒屋の壁に付けられたテレビをちらちらと観ながらいつものように酒を飲んでいた。Mはハイボールでぼくは夏でも燗酒(かんざけ)だ。 「そうだったよ、けど、四年間レギュラーはおろか、ベンチにも座ったことがない」
Mは軽やかに笑った。
「そうだったのか。体育会も強豪となると大変なんだ。お前もいい体格しているのにな」
「馬鹿言っちゃって、そりゃあ体も条件だけど、まあ、いちばんはセンスだろうな。めったに人に言えないが、オレ、インコースが打てなかった。それも、からっきしっていうか、かすりもしないのさ」
Mがすこし泣きそうに顔をくずしてまた笑った。
「かすりもしない?」
「そう、そう」
「そんなことって、あるのか、練習は激しいだろうし」
ぼくにはどうやら解らないことが野球の奥にあるらしい。
「あるんだよ、オレはまるっきし、といっていいぐらいインコースに弱かった。とはいってもたまに間違って当るんだよ。まったくの偶然に。一年に一度か二度ね」
「おい、おい、本当かね。そんなに打てないものなの」
「うん、おれの場合は」
「ポジションはキャッチャーだったよな」
「うん、七、八番のね」
「えっ、七人も八人もキャッチャーがいるの?」
「うん、うん」
「うん、うん、って驚きだな」
「ピッチャーの数だけキャッチャーはいるからね」
「なるほど、考えてみればそうだ」
「それで、オレなんかブルペンでただ、ただ、ピッチャーの球を受け続け、バッティングでは打てず、目立たず、四年が過ぎた」
Mはハイボールをあおった。
「そんな青春もあるんだ」
ぼくはすこし驚き、そして、すこし、Mをなぜか見直した。
「尊敬するよ、お前を」
「ただインコースに弱いだけの選手だったのに、尊敬はないだろ、それにこの話は内緒だぞ」
「そうだったな。みんなは名門の野球部出身だとうらやましく思っているのだから」
その夜はすこしほろ苦い酒になった。
疲れたとき、気分を変えたいとき、夕暮れに一杯やりたいときなどに銭湯はおすすめだ。知らない町でも、自分の町でもふらりと入りたい。日ざしがまだ残っている晴れた日も雨の中でも銭湯をのぞけば気分は晴れる。見知らぬ人と一言二言もなんだかうれしい。手ぬぐいやせっけんの用意がなくても売ってくれるから手ぶらでも大丈夫。親しい友人を誘って銭湯から居酒屋という旅はおすすめ。

(2012.05.14)
浅井 愼平 (あさい・しんぺい)
1937年、愛知県生まれ。写真家。65年日本広告写真家協会賞受賞。66年6月のビートルズ来日時、主催者により日本側のカメラマンに選ばれ、ホテルの中まで密着取材する機会を得る。以後広告写真のほか、雑誌取材、エッセー、映画監督、コメンテーターなど幅広い仕事をこなす。写真集「WINDS 風の絵葉書」「HOBO」、エッセー集「気分はビートルズ」ほか著書も多数。

※当サイトの推奨ブラウザは、Windows Internet Explorer6.0以上、Firefox1.5以上、Macintosh Safari 1.3以上、Firefox1.5以上となります。
Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.
どらくに掲載の記事・写真の無断複製転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
©朝日新聞社
無断複製転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。