
東京暮らしが長かった押見さん夫妻が、セカンドライフを送る場所に選んだのは伊豆高原だった。昔ながらの田園風景が広がる一方で、美術館や博物館が多く、文化的な薫りが漂うリゾート地。閑静な別荘地にある家を訪ねると、大きな椎(しい)の木をくりぬき、アクリル板をあしらったおしゃれな看板が出迎えてくれた。
「近くのお寺の畑に置かれていた木をいただいてきたんです。どうやって使おうかとしばらく考えてできたのがこれで……」と、洋夫(ひろお)さんは少し照れくさそうに話す。
看板には「Rose Madder(ローズマダー)」とある。自宅に併設されたギャラリーの名前だ。画家である匡子(きょうこ)さんの亡き父、桑原宏さん(日本美術会会員)の作品を展示しているという。早速中を見せていただくと、木立や山間の家、湖など国内外の風景を描いた美しい絵画が並んでいた。くつろいで見てもらえるようにと、喫茶スペースも設けている。


「ギャラリーはもっぱら妻の仕事で、私は窯(かま)でパンを焼いて応援しています」と洋夫さん。
ここに引っ越してきたのは3年前だが、パン作りはそれ以前、かれこれ10年前からの趣味だ。以前は台所のガスオーブンで焼いていたが、今は庭の窯に薪をくべて焼いている。「ギャラリーに来るきっかけになってもらえれば」とパンの販売もはじめた。もともと凝り性で、パンの種類によって使う粉や天然酵母の種類を変えるなど研究に余念がない。「商売にはなっていませんが、地域の方とコミュニケーションを図る一助にはなってくれているようです」と謙遜(けんそん)するが、作り方も味わいも本格的だ。
パン作りは土日と祝日に行う。朝5時に起きて窯の火をつけ、昼1時頃までには焼き上げる。パン作りの合間には畑の世話をする。畑には農業初心者とは思えない立派な大根やタマネギ、菜の花などが並んでいる。

ここに移り住んだのは2006年4月。はじめから今のような生活を送っているわけではない。最初の1年はこの地に慣れることを最優先したという。
「ショップスペースがあるのに、しばらく何もしないものだから、周囲の方は『何が始まるんだろう』と気にしていたようです」と匡子さんは振り返る。ギャラリーの構想は心にはあったが、オープンは翌年の7月となった。
一方、洋夫さんは「まずはできることから」と、趣味のパン作りを本格的に取り組むことに。その一歩が庭に窯を作ることだった。「せっかく場所がありましたし、薪になる桜や楢の木も周りにたくさんありますから」。まったくの初心者だったが、この土地で知り合った人たちにアドバイスを受けながら、すべて自分の手で作り上げた。材料のれんがは陶芸の里、岐阜県多治見市で使われなくなった登り窯から出た廃材。多治見出身の知人が手配してくれたのだという。

窯を覆ったログハウス風の屋根も手作りだ。これもここに来て知り合ったログハウス造りの達人である友人に、手ほどきを受けながら作った。「ここに住む方たちはみんなすごい人ばかりです。趣味といっても、知識も技術もプロ並みですから」と洋夫さん。
これだけのものを作っておきながら、日曜大工は必要に迫られればする、という程度の素人だったというから驚く。「あるものを使おう、できることは自分でしよう」という思いと、持ち前の豊富なアイデア、そして地域の人々とのつながりが、自然にこうした暮らしへと導いてくれているようだ。

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