今、夫婦の日課は、毎朝のレッスン。朝食を済ませ、道子さんが1階書庫の奥にある仕事場で、70歳から始めた韓国語の勉強にとりかかると、洋さんは3階で愛用の楽器を取り出す。
弾くのはチェロと、チェロによく似た古楽器ビオラ・ダ・ガンバ。事務所に行く前の1日1時間、出張などで早く出かける朝も最低30分間は練習にあてるという。
「弦楽器が好きですね。ギターやリュートも含めて10台以上持っていますよ」
若いころからクラシックにひかれていた。しかし、学生時代はフルートに挑戦したが相性が合わず、次にはマンドリンを試してもみたが、難し過ぎて挫折。以来、楽器からは長い間、遠ざかっていた。30代からバロックの演奏会で幾度も聴き、独特の音色に憧(あこが)れていたビオラ・ダ・ガンバを手に入れたのは57歳の時だ。
「これなら弾ける気がしたんですよ。ところが難しい。10年以上やっても全然うまくならない」
首に象牙とべっこうの装飾が入ったビオラ・ダ・ガンバは、1700年ごろにドイツの制作者キルケが作った。一度はチェロに作り替え、また元に戻されたものだそうだ。繊細な細工がなんとも美しい。音色には微妙な雑味(ざつみ)が混じる。いかにも古楽器らしい深い音だ。
「最近はもっぱらチェロです。やっと少し上達したかな。人前ではまず弾かないんですが」
鏡の前で姿勢を確かめながら構える。なめらかな弓の動きに添うようにバッハの旋律が流れる。設計には音響メーカーのプロが加わったというリビングは、音の響きも抜群だ。
「バッハはすごいですね。音楽の抽象度が高い。ひとりで何百回弾いても飽きることがありません。シューマンもよく弾きますね」
この家には音楽家の友人たちもよく集まる。そんな日は、洋さんの持つ楽器がフルに活躍することになる。皆でプロの演奏を聴き、その後は気さくなパーティーを楽しむのだ。料理は夫婦とも得意とするところ。洋さんが一番よく作るのはラタトゥイユ。 「手間はかけません。まずワインとチーズを出して、それからラタトゥイユとスープを出して。女房はタイ料理やカレーを用意することが多いですね」
今はこの家でゆっくり過ごす時間がいいと話す洋さん。70代からの暮らしを考え抜いて作り上げた、コンクリートとガラスと木のモダンな住まいは、積み重ねる日々の中で穏やかなぬくもりを帯びる。


1階の書庫の一角には、洋さん専用のコーナーが。引き出し3杯分の中身はすべてクラシックの譜面だ。銅板や石板に手彫りして刷られたという古い楽譜も数多い。これが全部、弾ける曲? 「いやいや、とんでもない。持っているといつか弾けるかなぁと思って」。ついつい集めてしまうのだ。

中原洋(なかはら・ひろし)
1935年東京生まれ。編集者・建築評論家。早稲田大学文学部卒業後、広告代理店でコピーライターに。42歳で退職後、1年半のアメリカ遊学を経て、フリーライターに。1981年、中原編集室(現在名は中原大久保坂口編集室)設立。主に建築、アート、旅などをテーマに各誌の編集・執筆を行なっている。著書に「意地の都市住宅」、共著に「まち作りの知恵と作法」など。

文 :秋川 ゆか
写真:伊田 淑乃
(更新日:2007年01月11日)
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