模型作りに使う材料は木、紙、金属……とさまざま。客車の窓には透明な下敷きが好適だし、岩や山を表現するには発泡スチロール、地面には砂や水槽用の小砂利も便利だ。庭には材料や部品などあれこれ納めた倉庫が3つ。はみ出た道具類は棚に並べてビニールシートで覆ってある。話をうかがう間にも、富永さんは次々と倉庫を開け、あるいはシートをめくり、めざす品を迷いなく取り出す。3畳ほどのプレハブ書斎も、中はパーツや資料、ビデオなどでぎっしり。わずかにパソコンの前だけが、なんとか1人が座れるスペースだ。
「コックピットみたいでしょ」と富永さんは笑うのだが、この圧倒的な物量は、おそらくご本人以外はとうてい把握できないに違いない。母屋には一切、模型関係を持ち込まないぶん、庭に点在する建物や棚のすべてが、長年の趣味を蓄積した大切な「おもちゃ箱」だ。もちろん、作った模型も倉庫のあちこちに収納してある。HOゲージだけではない、昔ながらのOゲージや、さらに大きいGゲージも、いまだに楽しみの一部だ。中には14歳のころに作った車両もある。
「今もきれいに走りますよ。僕の宝物です」

自分一人の趣味だった鉄道模型作りが、運転会へと発展していったもとには、同世代感覚があったと富永さんは言う。戦時中の疎開生活があり、敗戦では大人たちの意識が一変するのを肌で感じた。多感な青春時代には60年安保。やがて高度経済成長の時代を経て、バブルとその崩壊も身にしみた。
「同じ世代の連中も、どこかでやさぐれているだろう。僕は模型を作ることで癒しを得てこれたわけですが、きっと同じようなことが好きな人もいるだろう、と」
知人に話したのをきっかけに、人から人へと伝わり、趣味を同じくする人の輪はふくらんでいった。集まるのは演劇とは別の世界に生きてきた人ばかりだ。世代は近くとも、積み重ねてきた経験はまちまち。話題は鉄道模型にとどまらず、どこまでも広がっていく。それが、楽しい。

10年、20年前はみな、会話を交わすよりも手製の模型を走らせることに夢中だったが、多くのメンバーが70代となった今は、飲みながらのんびり話す時間のほうが多くなった。
「最近は模型を作ったことのない人も加わってきました。ご夫婦で来られる方もけっこういますよ」
昼が近づくと、庭におこした火で肉を焼き、大鍋で汁物を煮る。おいしいにおいがはけの道に漂う。興味深げに立ち止まる人を、メンバーの誰かが呼び込む。模型の面白さを、また誰かが語りかける。宴は今日も、こうして夕暮れまで続く。


富永さんが庭に展開する路線は、架空の「一里(かずさと)鉄道」。自分と妻の萬里子さんの名から一字ずつ取った。「山あり谷あり、嵐も月夜もある鉄道です」。この駅は「東一里」。近くにある一里温泉へはバスで行くそうだ。現在は入院加療中の萬里子さんは、俳優をめざす若い日の富永さんを明るく支えてきた。


富永 一矢(とみなが かずや)
1935年東京生まれ。戦争中は足利に疎開していた。14歳の時に子役としてデビュー、1956年に劇団民藝に入団。59年に仲間と劇団青年芸術劇場(青芸)を設立、64年からは大岡昇平氏の勧めで劇団雲に入団する。制作に転身後、42歳で三百人劇場支配人に。病気による静養期間を経て、俳優座劇場支配人を務める。65歳で退職し、現在は地元の「小金井雑学大学」学長。父は作家の富永次郎、詩人の富永太郎は叔父にあたる。

文 :秋川 ゆか
写真:窪田 勇
(更新日:2007年02月09日)
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