保さんが英語が得意なのにはわけがある。上海で育った父の仕事は外資系の出版社、母も英国人の祖父を持つ。幼少のころから家庭内の会話はすべて英語だったという。小学校から高校まではインターナショナルスクール。
「高校を出たときは、日本語の読み書きはまったくできないままだったんですよ」
卒業後はジャーナリストを志し、アメリカの大学で学んだ。
「でも、だんだん建築に興味がわいて。帰国後に日本語を学び、建築・インテリアの専門学校に行きました。4年制大学は、僕の日本語力では受験できなかったんです」
木造建築の基礎にはじまり、インテリアや家具についても一からたたき込まれた。就職したゼネコンではインテリアデザイン部へ。語学力を見込まれ、世界各地でのプロジェクトに、チームの一員として出向いた。専門学校で出会った恵子さんとは、入社1年目に結婚していた。しかし、海外に滞在する時間は長く、仕事は忙しかった。

十数年間のゼネコン勤務の後、外国人向け不動産会社の企画部門に転職。さらに、請われて輸入家具の専門企業に移った。設計事務所と組んで、建築物の内部の家具や造作をすべてコーディネートする仕事である。ヨーロッパ各地のメーカーに出向き、家具を選び、特注品のデザインもする。図書館ひとつ建てるなら、書架や閲覧机、椅子(いす)、カウンターなど、ひとつひとつを手配する。そこで北欧の小さな家具メーカーの魅力をとことん知った。家族ぐるみの付き合いも生まれた。やりがいのある仕事だった。
金沢の紙問屋に生まれた恵子さんが、保さんと同じ専門学校に通ったのは、インテリアを学ぶためだった。高校から東京での寮暮らし。自分の希望を通してきただけに、実家が壁紙のショールームを作るのを機に、少しでも役立てればと思ったのだ。ところが卒業してまもなく、故郷に戻ることなく結婚。

「設計事務所にもしばらく勤めましたが、主人と同じ仕事だと、どうしても教えられることが多くなる。それがイヤで、織物を勉強したりもしました」
子育てが一段落したころ、織物作品に目を止めてくれた知人のギャラリーを手伝うようになる。1年後にはそのまま引き継ぎ、オーナーに。良質の工芸を通して、日本の文化を伝えていこうと考えた。作家の発掘や企画、運営を一人で担ううち、11年の歳月はまたたくまに過ぎていった。
ともに充実した日々を送っていた熊野さん夫婦だったが、一昨年、恵子さんの父親が体調を崩した。ギャラリーの仕事をこなしながら金沢に通う姿に、保さんの心も動いた。暮らし方を変えるべきときがきているのではないか……。

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