田中さんの本業は電器店の経営だ。小学校時代から、コイルを巻いてモーターを作ったりする実験が楽しく、中学生のころには将来は技術職を目指そうと決めていた。電機専門学校に進んだ時、出会ったクラスメートの一人がラジコン好きだった。
一緒に、荒川の河川敷で飛ばし始めた。電気の知識を生かし、真空管を積んだ飛行機なども作った。都内の事務機械メーカーでエンジニアとして働くようになってからも、趣味は続いた。しかし、25歳で神奈川県内のメーカーに転職し、住まいも引っ越してからは、長い中断の日々が訪れる。仕事は忙しかったし、家庭も持った。おまけに、近くには模型飛行機仲間もいない上、飛ばす場所もなかった。20代で懇意の家電販売店に引き抜かれて支店長になり、やがて独立。40歳で現在の店を持った。

飛行機作りを再開したのは、それから間もなくだ。仕事であちこち歩くうちに仲間もできた。風のない日は、皆と飛行場に集い、自慢の作品を飛ばすようになった。妻や息子を連れて、河原で楽しむこともあった。だが、風が強いとラジコン飛行機は飛べない。そんな休日は何をするか。48歳でウインドサーフィンを始めた。
「5年間くらい、そういう生活をしていました。大荒れの日に海に出て、死ぬ思いもしました」
風の日にも屋内でのんびり飛行機を飛ばして楽しめたら……。ちょうどそのころには飛行場も使用できなくなり、また同時に、軽い飛行機に挑戦してみたい思いもつのっていた。インドアプレーンの制作をスタートしたのは、10年ほど前のことだ。
「最初のうちは、100グラムをいかに切るかが課題だったんですよ。市販の材料を使い、電池は携帯電話用。翼には台所で使うラップフィルムを張っていました」

仲間を集めて「湘南スローフライヤークラブ」を立ち上げ、技術の探究に励んだ。インターネットを利用して世界中からパーツを探し、受信機やコントローラーは自ら設計する。IC基板までも自作だ。取り寄せたパーツや開発した装置は、ほしい人に安価で供給する。海外の仲間からもさまざまな情報が寄せられ、輪が広がっていくのもうれしい。重かったプレーンは、こうして劇的な軽量化を遂げていった。
田中さんの制作の場は自宅の2階だ。もともとは家族で過ごすリビングだった部屋。隅にはキッチンもある。壁面や天井には、以前に外で飛ばしていた大型機が多数。机の上や周囲は、パーツを仕分けしたケースで埋まる。
「作り始めた当初は、飛行機関連のものが増えるたびに女房に怒られていたんですが。いつのまにか、2階は私の専用スペースになってしまいました」
時計修理用のルーペをつけ、1000分の1グラム単位のはかりをかたわらに、こつこつとパーツを組み、頒布用の集積回路を作る。
「超零細の国際企業です」と笑うその姿は、まさに技術者そのものだ。

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