

米西海岸の玄関口、サンフランシスコやその近郊に暮らしていると、「日系人」は比較的身近な存在だ。特別に意識しなくても、テレビを地元チャンネルに合わせれば、日系人女性キャスターがニュースを読み上げている。新聞を広げると、テクノロジーに詳しい日系人記者が、最新のシリコンバレー事情について解説を書いている。日系人はこの街にどう溶け込んできたのだろう。日系人社会の現状と将来を見つめてみた。
メディアが日系人や日系人社会そのものについて伝えることも多い。米国の新聞は日本とは異なり、全国紙が少なく、地域密着型のローカル紙が中心。サンフランシスコ・クロニクル紙のような、大都市圏の新聞でも事情は同じである。訃報記事においても、全国的に名の知れた有名人と同じように、われわれが知らない、この地域で生涯を終えた市井の人たちの軌跡をじっくりと読者に伝える。最近のクロニクル紙から紹介してみよう。4月下旬に死去した日系2世男性の訃報記事だ。
サンフランシスコのジャパンタウン。通り名にも「ポスト街」など、日本語が併記されている |
「07年4月20日、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ヘルスケア・センターで死去した。1910年8月29日、サンフランシスコのジャパンタウンにあるブッシュ街の自宅で生まれた。7人姉妹に挟まれた唯一の男の子だった……」
同紙によると、日系2世として生まれたこの男性は少年時代から懸命に働いていた。自転車でサンフランシスコ中を回り、日本語紙「ニュー・ワールド・サン(新世界朝日新聞)」を配達。夏休みには毎年、カリフォルニア州中部で農作物を摘み取って回った。また、他の日系人少年たちと一緒に、アラスカにある魚の缶詰工場で働いた。彼らは「アラスカ・ボーイ」と呼ばれていた。日本との戦争が始まると、家族とともに強制収容所に入った。そこで後に妻となる女性と出会った。終戦後、サンフランシスコに戻り、マットレス販売会社に就職。定年まで勤め上げた同氏の自慢は、新婚のマリリン・モンローとジョー・ディマジオが注文した巨大な円形ベッドを組み立てたことだったというエピソードまでもが細かく書き込んである。
ジャパンタウンにて。街中には日本語があふれる。 |
訃報記事だけではない。06年3月17日付のクロニクル紙は、「ジャパンタウンを救え」と題した社説を掲げた。近鉄がショッピング・モールやホテル事業を手放し、ジャパンタウンからの撤退を表明したときだった。社説は「100周年を迎えたばかりのジャパンタウンがそのユニークさを失うとすれば、サンフランシスコ市にとって大きな損失になるだろう」と述べ、市が率先して保存に取り組むように訴えた。近鉄が手放した物件を米投資会社が買い取ったため、ジャパンタウンから将来、「日本色」が消えるのではないか、と懸念されていた。

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