
斉藤トシノブ
1947年、東京生まれ。精密音響機器メーカーの営業部長。神奈川県在住。専業主婦の妻と、27歳の娘、24歳の息子あり。体重73キロ。若い頃は「平凡パンチ」や「メンズクラブ」を読んで多少のおしゃれを試みたこともあるが、就職してからは背広とネタクイ姿の方が、かえって楽だと感じるようになっている。いかにも団塊世代なビジネスマン。
この夏、私の会社でも、室内温度を28度に設定することが決まった。よりによって私が「クールビズ」の推進役を請け負うはめになった。営業部門の管理職が率先すれば、浸透しやすいというのが理由だ。
クールビズの第一歩はノーネクタイだ。私がそれをやったら、酔っ払ったサラリーマンがネクタイをはずしているような、無残な姿になりはしないか?さらに、ネクタイを締めることで、私は「これから仕事をするぞ」という戦闘モードに入れる。ノーネクタイとなると、「その武装を解除しなさい」と言われるようなものだ。私は着こなし以前に、それが心理的に怖かった。
こういう時は専門家の力を借りるのが手っ取り早い。ほとんど心理カウンセラーに相談するような気持ちで、私は東京・日本橋にある高島屋の紳士服売場に足を運んだ。
対応してくれた岩立文雄氏は、私より数歳若そうで、スリムな体型をしている。うらやましいと思ったが、ショックだったのは、彼の襟元である。襟台にボタンホールが2つある白いシャツを着ている。ドゥエボットーニというのだそうだ。しかもボタンホールが紺色である。その上に紺色のジャケット。胸元にはポケットチーフ。さりげなくてカッコいい。
「駄目だ。自分には、こんな格好はしたくてもできない」とさじを投げたくなったが、心のどこかで「見る前に跳べ」という言葉が、呪文のように響いてきた。私は岩立さんに素直に打ち明けた。「会社でクールビズを推進する立場になったんですが、何を着たらいいのか、見当もつかなくて、困ってます」
岩立さんは「まずはシャツですね。普段着ているワイシャツにノーネクタイ、第一ボタンをとめない、というスタイルは、だらしなくなってしまいますから、せめてボタンダウンのシャツを着て、襟元の印象を変えた方がいいでしょう」とアドバイスしてくれた。
ボタンダウン。昨年も多くのサラリーマンがこのシャツで、ノーネクタイという関門を乗り切ったことは、知っていた。しかし30年前に着ていた頃と比べて、首元がいささかゆるんできた私に、もう一度、このシャツが着られるのだろうか?
こんな私の心理を察してか、岩立さんは「大丈夫ですよ。昔、ボタンダウンを着た経験のある方なら、クールビズは思っているほど敷居が高くないですから」と私を慰めながら、シャツ売場に案内してくれた。
売り場にあるボタンダウンは、柄といいデザインといい種類が豊富だ。しかし、私が若い頃に着ていたものとは、少し違っていた。襟が大きいし、Vゾーンも深いような気がする。
「襟台が高くなっているんです。ネクタイを外した時、その方がVゾーンがきりっと見えて、清潔な感じがするからです」と岩立さん。
織が入っている白地のボタンダウン・シャツを胸に当てて、鏡を見てみた。うーむ、悪くないような気もする。清潔な感じだ。次にブルーのシャツを試してみる。似合わないだろうと予想していたものの、これも意外と悪くない。そして最後に黒のピンストライプ。似合う似合わないは別として、「着てみたい!」と思った。カッコいいからだ。
次に薦められたのが、小泉首相も時々着ている、襟と袖だけが白いシャツ(クレリック・シャツと呼ぶのだそうだ)。この薄いブルーのクレリック・シャツを胸に当てた時、私はあわてて棚に戻した。似合わない。このシャツを着こなすには、オシャレ心というものが、三代も前から受け継がれていないと無理だと思った。ピンクや黄緑の、いわゆるパステル色のクレリック・シャツもあったが、こんな色を着こなせる男がうらやましいものだ。
「慣れれば、クレリックはそれほど難しくないんです。最初はちょっと勇気がいりますけどね」と岩立さん。勇気かぁ。シャツ1枚を着こなすにも、勇気がいる時代なのだ。
最後に薦められたのが、今年の注目株だというイタリアンカラーのシャツだった。襟台にボタンがなかったり、襟台そのものもがないものもあって、襟元(えりもと)がまる見えになるシャツだった。これは試すまでもない。私には似合わない。たるみがちな私の首元がまる出しになるからだ。
結局、私は最も無難なボタンダウン・シャツを3枚買うことにした。白地に織が入ったものと、白地でボタンホールがブルーのもの、黒のピンストライプのものである。値段は3枚で2万数千円。思ったほど高くはなかった。
「やはりクールビズはシャツから始めていただくのが一番ですね。それから色々と必要なものが出てくると思います。その時はまたご相談ください」と岩立さんはさわやかにほほ笑んだ。つまり、「次に別の関門が待っている」と暗に伝えているのだ。その関門が何なのかは、シャツを着てみなければわからない。
しかし、見る前に跳べ。案ずる前に着ろ。私は来週からボタンダウンのシャツにノーネクタイで出社することにした。来週は取引先との大事な打ち合わせが一件ある。その場に、ノーネクタイで臨めるだろうか。今のところ、あまり自信はない…。
(撮影協力:日本橋高島屋)
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