
斉藤トシノブ
1947年、東京生まれ。精密音響機器メーカーの営業部長。神奈川県在住。専業主婦の妻と、27歳の娘、24歳の息子あり。体重73キロ。若い頃は「平凡パンチ」や「メンズクラブ」を読んで多少のおしゃれを試みたこともあるが、就職してからは背広とネタクイ姿の方が、かえって楽だと感じるようになっている。いかにも団塊世代なビジネスマン。
月曜日の朝、私は30数年ぶりにボタンダウンのシャツを着て、鏡の前に立った。昔はチェックのボタンダウンのシャツの上にJUNのジャケットなどをはおったものだが、今は襟台がやや高くて白いボタンダウンのシャツに紺色の背広。どうもしっくりこない。
第一ボタンをはずすと襟元がスカスカするし、心理的にも戦闘モードに入れない。このかっこうで会社に行くのかと、時計を見ながら躊躇(ちゅうちょ)していると、妻が部屋に入ってきた。「大事なものを忘れていたわ」と、Vネックの下着シャツを手渡した。「下着が見えやすいから、ボタンダウン用のものに着替えなさい」と言う。
妻は、仕事人間の私よりずっと行動的だし、情報通だ。私がクールビズを着ると知って、さっそく近くの紳士服店に行ってあれこれ話を聞き、下着を準備していたのだ。私には、下着までは考えが及ばなかった。これだから私は妻に頭が上がらない。
玄関先で、「いってらっしゃい」の代わりに、「ネクタイがないと、なんか間が抜けた感じね」と、私がもっとも言って欲しくないことを、妻はサラリと言った。
電車に乗ると、まわりのサラリーマンはネクタイ族ばかりだったが、途中の駅で一人、ノーネクタイの人間が乗り込んできた。年齢もほぼ私と同じだろう。同じような紺色の背広に白いボタンダウンのシャツを着ていた。しかし決定的に違うのは、白地に紺や赤などの柄が入ったチーフを胸ポケットにザクッと挿し込んでいたことだ。
私は彼を横目で見ながら、頭の中で、自分が胸ポケットにチーフを挿し込む姿を想像してゾッとした。同じことをやれば、今どきの言葉でいうと「チョイ悪おやじ」の出来損ない、昔の言い方をするなら「キザ」になりかねない。
しかし、ポケットチーフがノーネクタイ姿の「間の抜けた感じ」を埋め合わせる、重要なアイテムであることだけは、私は瞬時に理解した。彼のスタイルはそれなりに、キリリと締まっていたからだ。
社に着くと、ノーネクタイ姿の私を見て、部下たちが「部長、がんばってますね」と言った。とりあえず、勇気だけは伝わったようだ。部下を育てるには、言葉より態度。クールビズ推進役の私が、おどおどした態度を見せると、部下だってネクタイを外せない。内心はおどおどしていても、堂々とノーネクタイで出社した上司の態度を取った。
ノーネクタイでよかったと思ったのは、午後からだ。その日はだんだんと蒸し暑くなってきたが、第一ボタンをはずした私は、それほど蒸し暑さを感じなかった。クールビズにすると、体感温度が2〜3度違うと言うが、確かに涼しい。不安定だと感じていた首元が、反対に、開放的で心地良く感じる。ひょっとして、これは襟元の「解放」ではないか?
問題は、金曜日に控えている取引先との打ち合わせだ。ノーネクタイでも相手に失礼だと感じさせない、キリリと締まった雰囲気に変えなければならない。そのためにはポケットチーフ。あの電車で見かけた同輩の姿が浮かんだ。ポケットチーフを挿し込む勇気と洒落心が、クールビズの第二関門だと確信した私は、帰りがけに、自宅近くにある紳士服店のアオキに立ち寄ることにした。
ポケットチーフの売り場は、女性のスカーフ売り場かと思われるほど、さまざまな色、柄の商品が並んでいた。しかし、ネクタイなら好みで選べるが、チーフは選び方がわからない。ましてや挿し方なんて。
ため息をついている私に声をかけてくれたのが、男性店員だった。「ポケットチーフをお選びですか」と聞かれて、「選ぶ以前のレベルです。使い方を知らないんです」と、私はまたもや正直に答えた。すると彼は「ポケットチーフの挿し方」というリーフレットをくれた。「挿し方にも5種類ありまして」と、自分のポケットチーフを使って説明してくれた。
昨日の電車の中で見た「ザクッ」という挿し方は、チーフの真ん中をつまみ、そのままポケットに無造作に挿し込む「パッフドスタイル」のようだ。しかし、クールビス初心者には、ハンカチを折り畳んだようなスタイル(ティービー・ホールドと呼ぶらしい)が向いているように思う。
色はネクタイを選ぶ時と同じで、シャツやパンツの色から拾って、3色以内に収めることがポイントらしい。値段はネクタイの3〜5分の1なので、とりあえず3枚購入した。
それにしても、クールビス・コーナーに並んでいるマネキンは、ジャケット&スラックスが目立つ。こういうかっこうをするには、コーディネートのセンスが要る。私はいつも背広スーツばかり着ているから、下手にコーディネートなど意識すると、かえって野暮天に見えそうで、腰が引けてしまう。
「この1年で、男性のファッション観は大きく変わりました。色に対して目覚めたというか。ジャケットとスラックスを組み合わせて、背広の時とは違う茶色のベルトや靴を選ぶお客様がいらっしゃいます」と店員は言う。確かに、そういう同世代の貴兄もいるだろう。しかし、私はチーフを胸ポケットに挿すだけでも、抵抗を感じる人間なのだ。
家に帰って鏡の前に立ち、チーフ3枚を順番に胸ポケットに挿し込んでみた。私のやることには、おおむねシニカルな態度を取る妻だが、この時の反応は意外なことに、「結構、いけるんじゃない?」だった。「今朝のような、ダレた感じがなくなったわ」と。
やっぱり、ネクタイを外しても、ポケットチーフがなんとかしてくれるのかもしれない、と思ったのだった。
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