世界最大級のブナ原生林として知られる白神山地は、青森県南西部から秋田県北西部にまたがる広大な地域の総称だ。このうち、約1万7千ヘクタールが1993年12月に世界遺産として登録された。
白神山地へは、青森県弘前市から県道28号線で同県西目屋村(にしめやむら)を目指すのが一般的だ。西目屋村の美山湖を過ぎたあたりからの山林一帯が世界遺産に登録されている。


この地に、マタギと呼ばれる人たちがいた。東北地方や北海道で、クマやシカ狩りをしてきた人々で、集団で行動する彼らは、シカリと呼ばれるリーダーのもとで役割を分担した。山の神様を称える信仰を持ち、マタギたちは、夏は農業などを営み、冬から春にかけて山に入り、何日もかけてクマを追った。冬眠から目覚めたばかりのクマの胆嚢(たんのう)は「熊の胆(くまのい)」として珍重され、肉や毛皮とともに貴重な現金収入となった。
工藤光治さん(64歳)は、その一人だ。マタギだった父親とその仲間たちが熊鍋を囲んでクマ狩りの話をしているのを聞きながら育った。15歳の時にマタギ集団に見習いとして入り、これまで74頭のクマを獲ったという。
マタギの語源には諸説がある。又木(股木)というY型の杖を持っていたからとする民俗学者の柳田國男の説や、マダという科(しな)の木の皮をはいだ繊維で織った着物を着ていたからだとする菅江真澄のマダハギ説など。しかし工藤さんは「又鬼」の字をあてる説を教えてくれた。この説はマタギの奥深い職業倫理を言い当てている。
「マタギは動物が憎いから殺すわけじゃない。その命を貰わなければ人は山で生きていけない。罪のない動物を殺すのだから、鬼になって相手を苦しめることなく一瞬に殺しなさい。動物を殺すたびに鬼になる。又、鬼になるから『又鬼』なんだ」
工藤さんはマタギとして初めて山に入る時、父親からそう教えられたという。

白神山地は2004年3月、鳥獣保護区に指定され、山でクマ狩りをすることができなくなった。工藤さんは「白神マタギ舎」を設立。熊を追った山を案内しながら、鳥や動物、植物の様子を自らの体験で得た知識とともに語り伝えている。
工藤さんと、開発が中止された青秋林道のクルマ止めから、マタギたちが狩猟のたびに歩いた森に分け入った。急な下り坂を恐る恐る下り、渓流の河原に降りると、流されて来た倒木があちこちに横たわっている。清流にはイワナやヤマメが泳いでいる。川底の浅い場所を見定めて、ひざまで水につかりながら川を渡る。対岸の急斜面を300メートルほど木やツタにつかまりながら一気に登ると、そこは一面ブナの林だった。
周囲には人間が通れるような道らしいものはない。ブナの倒木にキノコが生え、今年、実生から育ったばかりのブナの赤ん坊が双葉を広げている。丸いカモシカの糞(ふん)がうず高く残され、サルが食べ残したのであろう木の実の殻が落ちている。


ブナの木にクマの爪跡も見つけた。そこには動物の気配が満ちていた。鬱蒼(うっそう)としたブナ林の中、ぽっかりと空が見えた。一本のブナが倒れて空いた空間だ。ササやブナ、トチノキが生き残るためにわずかな光を奪い合うように群生している。下草の生い茂る地面からは清水が流れ出している。白神山地は水の王国でもあり、ブナ林は巨大な貯水層でもある。

白神山地のブナ林は8千年ほど前に形成されたといわれ、その後まったく人の手が入らず現在に至っている。白神山地周辺は積雪が多い。雪が長い間、ブナを育て続けてきた。雪はブナの根を冬の寒さから守り、春先の冷え込みから若芽を保護する。雪解けの水は4〜5月、生育期のブナにたっぷり水分を補給する。ブナにとって雪は安らぎのベッドなのだ。


1960年頃まで、東北地方の風景はブナを中心とする森であった。しかし多くが伐採され、今ではまとまった山林としては白神山地のブナ林が、最大のものとして残った。
青森市内の三内丸山(さんないまるやま)遺跡では、発掘調査の結果、長期間にわたって定住生活が営まれていたことがわかり、膨大な出土品の中からは栗の栽培が行われていたことが明らかになった。それは、古代からこの地域一帯の、ブナを中心とした豊かな森が、木の実、動物、川魚など豊富な食料を提供したからだといわれる。
白神を訪れると、太古から現在に至るまで、私たち人間がどのようにして自然の恵みを得てきたのかに思いをはせることができる。
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